【産経抄】 「背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし」〜福沢諭吉が現代に蘇ったら、何と言うだろうか?[01/11]
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俺は隣の家の同級生とは仲が良かったけどな。
親同士は微妙だったけど…。(隣の家は創価系の家庭と仲が良い事をだいぶ後から知った)
大人の事情も知らん無垢な少年だけに有効だっただけかも。 >>113
なぜそうまでして韓国と友好関係を築きたいのか、さっぱりわからん >>133
半島南を西側陣営に引きとめておきたいアメリカの策だよ。たぶん…。(わかってると思うけど)
日本はその嫌な役目をやらされてるの。
一応、日本も西側陣営の安定を維持する責務があるし…。
でも、南チョンを引きとめて安定するほどあいつらが普通じゃない事はわかってるからもどかしい。
で、日本がこの害悪でしかない南チョンを蹴っ飛ばすと南チョンはそっこーで支那側に吹っ飛ぶの。
それもまたまずいと考えているのが日米。 >>134
ちがうだろ
あのアマゾンレビューの書き手は極左だよ 先人のお言葉(参考)
奈良平城京時代の朝廷の重鎮で陸奥鎮守府将軍・恵美朝狩(藤原朝狩)。
天平宝字四年(760年)
恵美朝狩、新羅の使者が貢物を献ぜんことを乞うたところ、新羅が使者小野田守に対して
無礼であったことを責め、「汝の国は礼をわきまえぬ不信義の国である。王子すらウソを言う。
汝ごとき軽輩の言うところを信ずることができようか。忠信を重んじ、礼儀完備の国となって
から、出直して来い」と叱咤して追い返した。
(海音寺潮五郎 悪人列伝 古代篇 弓削道鏡 p98)
出典:「続日本紀 天平宝字四年九月」の条
http://www.j-texts.com/jodai/shoku23.html
江戸時代中期の旗本で将軍侍講の新井白石(1710年頃と推定。赤穂浪士討ち入り事件と、
ほぼ同年代)
「それ朝鮮は狡猾にして偽り多し。利のある所、信義を省みず。蓋し、その穢(きたな)き
貉(むじな)の俗、天性固然」____「(現代語訳)朝鮮人はズルくてウソつき。自分の利益
のためなら信義を顧みない。ワシが思うに、この薄汚いムジナのような習性は天性固有の
ものだ」
新井白石 国書復号紀事
新井白石全集第四巻 p702 【脱亜論の真実】
福沢諭吉は最初、日本が朝鮮と中国を開花させて、東洋3国が力を合わせ、西洋勢力の侵略に抵抗しなければならないと主張していた。
1881年以降、日本を訪れた金玉均・朴泳孝・兪吉濬・ユンチホなどの開化派の人たちも、福沢諭吉からたくさんの影響を受けた。
かれらに「朝鮮版の明治維新」を期待していた福沢諭吉は、1884年、甲申政変が清軍の介入によって失敗し、号泣した。
特に彼は、朝鮮政府が前近代的な連座制を適用し、開化派はもちろんのこと、その家族まで処刑したことについて激怒した。
福沢諭吉が1885年3月に自らが発刊した「時事新報」に「脱亜論」を発表したのは、甲申政変の失敗による衝撃のためであった。
この社説で福沢はこう主張した。
<もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
東亜の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。>
いわゆる「脱亜入欧」である。
福沢諭吉は1885年8月には、「朝鮮人民のために、朝鮮の滅亡を祈願する」という文を発表した。
ここで彼はこう主張した。
<人民の生命も財産も守らず、独立国家の自尊心も守らないような国は、むしろ潰れてしまったほうが、人民を救済する道になる。>
以後、朝鮮で東学の乱が発生すると、「朝鮮人民は、牛や馬、豚、犬のようだ」「朝鮮人の頑固さと無知さは、南洋の未開人以下である」と東学軍を非難した。
日清戦争が起きたときは、「中国人はボウフラ、犬、豚、乞食、烏合の山賊」と罵倒した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています