【産経抄】 「背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし」〜福沢諭吉が現代に蘇ったら、何と言うだろうか?[01/11]
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▲10日、ソウルの韓国大統領府で行った記者会見で、質問に答える文在寅大統領(聯合=共同)
「福沢諭吉が現代に蘇(よみがえ)ったら、何と言うだろうか?」。帯紙の惹句(じゃっく)にひかれて読み始めた。拓殖大学学事顧問、渡辺利夫さんの新刊『決定版 脱亜論』(育鵬社)である。「我(わ)れは心に於(おい)て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」。
▼福沢は明治18(1885)年に発表した「脱亜論」をこう結んだ。福沢は、朝鮮の近代化をめざす開化派のクーデターを支援していた。しかし、清の介入によって失敗に終わる。悪友とは、清と朝鮮を指す。
▼一部の福沢研究者は、「脱亜論」をアジアへの侵略主義の表れと批判する。渡辺さんの見方は違う。開化派への心情的な思い入れを改め、朝鮮半島の問題に現実的に対処しよう。これが福沢の真意だという。実際、福沢は「謝絶」することなく、朝鮮論を書き続けている。
▼韓国と北朝鮮による南北対話が始まった。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、記者会見で首脳会談の可能性にまで言及した。平昌五輪への参加を表明した北朝鮮の術策に、まんまとはまったようにも見える。対話は、核・ミサイル開発を進める時間稼ぎに使われるのではないか。
▼慰安婦合意をめぐる日韓合意に対する、韓国政府の新方針については、あきれるしかない。日本政府が拠出した10億円を凍結して、同額を韓国政府が負担するというのだ。合意の骨抜きが狙いだろう。日本大使館前の慰安婦像については、解決するよう努力する。そんな約束を守るつもりは最初からなかった。
▼福沢は「脱亜論」から10年余で、ついに朝鮮を突き放す。「左(さ)れば斯(かか)る国人に対して如何(いか)なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前(もちまえ)にして毫(ごう)も意に介(かい)することなし」(「事実を見る可(べ)し」)。その覚悟で韓国との付き合いに臨め、と福沢は言うだろう。
ソース:産経ニュース【産経抄】背信違約は彼等の持前にし
http://www.sankei.com/politics/news/180111/plt1801110004-n1.html >>113
なぜそうまでして韓国と友好関係を築きたいのか、さっぱりわからん >>133
半島南を西側陣営に引きとめておきたいアメリカの策だよ。たぶん…。(わかってると思うけど)
日本はその嫌な役目をやらされてるの。
一応、日本も西側陣営の安定を維持する責務があるし…。
でも、南チョンを引きとめて安定するほどあいつらが普通じゃない事はわかってるからもどかしい。
で、日本がこの害悪でしかない南チョンを蹴っ飛ばすと南チョンはそっこーで支那側に吹っ飛ぶの。
それもまたまずいと考えているのが日米。 >>134
ちがうだろ
あのアマゾンレビューの書き手は極左だよ 先人のお言葉(参考)
奈良平城京時代の朝廷の重鎮で陸奥鎮守府将軍・恵美朝狩(藤原朝狩)。
天平宝字四年(760年)
恵美朝狩、新羅の使者が貢物を献ぜんことを乞うたところ、新羅が使者小野田守に対して
無礼であったことを責め、「汝の国は礼をわきまえぬ不信義の国である。王子すらウソを言う。
汝ごとき軽輩の言うところを信ずることができようか。忠信を重んじ、礼儀完備の国となって
から、出直して来い」と叱咤して追い返した。
(海音寺潮五郎 悪人列伝 古代篇 弓削道鏡 p98)
出典:「続日本紀 天平宝字四年九月」の条
http://www.j-texts.com/jodai/shoku23.html
江戸時代中期の旗本で将軍侍講の新井白石(1710年頃と推定。赤穂浪士討ち入り事件と、
ほぼ同年代)
「それ朝鮮は狡猾にして偽り多し。利のある所、信義を省みず。蓋し、その穢(きたな)き
貉(むじな)の俗、天性固然」____「(現代語訳)朝鮮人はズルくてウソつき。自分の利益
のためなら信義を顧みない。ワシが思うに、この薄汚いムジナのような習性は天性固有の
ものだ」
新井白石 国書復号紀事
新井白石全集第四巻 p702 【脱亜論の真実】
福沢諭吉は最初、日本が朝鮮と中国を開花させて、東洋3国が力を合わせ、西洋勢力の侵略に抵抗しなければならないと主張していた。
1881年以降、日本を訪れた金玉均・朴泳孝・兪吉濬・ユンチホなどの開化派の人たちも、福沢諭吉からたくさんの影響を受けた。
かれらに「朝鮮版の明治維新」を期待していた福沢諭吉は、1884年、甲申政変が清軍の介入によって失敗し、号泣した。
特に彼は、朝鮮政府が前近代的な連座制を適用し、開化派はもちろんのこと、その家族まで処刑したことについて激怒した。
福沢諭吉が1885年3月に自らが発刊した「時事新報」に「脱亜論」を発表したのは、甲申政変の失敗による衝撃のためであった。
この社説で福沢はこう主張した。
<もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
東亜の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。>
いわゆる「脱亜入欧」である。
福沢諭吉は1885年8月には、「朝鮮人民のために、朝鮮の滅亡を祈願する」という文を発表した。
ここで彼はこう主張した。
<人民の生命も財産も守らず、独立国家の自尊心も守らないような国は、むしろ潰れてしまったほうが、人民を救済する道になる。>
以後、朝鮮で東学の乱が発生すると、「朝鮮人民は、牛や馬、豚、犬のようだ」「朝鮮人の頑固さと無知さは、南洋の未開人以下である」と東学軍を非難した。
日清戦争が起きたときは、「中国人はボウフラ、犬、豚、乞食、烏合の山賊」と罵倒した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています