※以下、暴論
 
常々思うが、我々の多くが『憲法改正』という語彙、と言うより『御題』に対して極めてナーバスだ。
極東の現状に鑑みれば、どうしてもシリアスな議論になるのは俺も理解しているつもりだが、個々の見解がしばしば
過剰反応に及ぶ場合が多い印象だ。こういった反応は率直に言って、中韓の専横という、素朴な危機感によって
励起〜駆動されており、その方向性自体はおそらく個々に正しい。真摯であることは大抵の場合、常に正しいので。
 
また多くの見解や各論がその立脚点において歴史を敷衍することも、たぶん間違ってはいない。契約であろうと理念で
あろうと、歴史という前例の参照にその正当性や正統性を見出すことには実のところ、あまり意味がないことを除けば。
よく見かける『保守とは』に類する語彙の定義や適用範囲を巡る応酬もまた、どこかで個々の見解の披瀝と使用語彙の
精度や適切か否かに終始する。では少なからぬ時間をかけてそれらを了解共有、そして最適化できるのかと言えば、
決してそうはならない。それらは常に『意見はヒトそれぞれ』という相対化で終わる、と言うより打ち切られる。
 
実際のところ、他国〜地域の『防衛力』がその射程に日米を収めるなら、日本の『防衛力』もまた当該国〜地域を射程に
収めることに深刻な問題は見当たらない。『相互破壊確証』とは単なるバランス感覚であり、保険であってそれ以上の意味はない。
少なくとも今のところ、ヒトはこれ以外の具体的な保険を発明していない。ただそれだけの単純なことなのだ。
 
ここも含めて、時折始まってしまう『憲法論議(大喜利とまでは言わないがw)』の多くはそれぞれの観点から不完全さの指摘や
成立過程の瑕疵に対する見解を述べても、結論としての何某かを述べるには決して至らない。たぶん誰も結論を出そうとは
考えていないからだ。シニカルな物言いをするなら、それらの論は猶予〜モラトリアム期間としての議論の典型に見える。
まるで『複雑化し、急がないことを以って安心を担保できる』かのように。それが唯一取りうる真摯な姿勢だとしても、
少なくともその過程を踏むことには膨大な時間がかかってしまうことに、我々は個々に自覚的であるべきだ。
 
ここで交換される各論に個人的な印象を述べるなら、現在の日本の憲法とは『緩やかな呪縛』だし、歴史とは『責任の転嫁先』だ。
憲法を考える時、我々の多くは歴史を参照するように作られている。我々が視認できる『歴史』とは必ず、かつてどこかに
存在した誰かの主観と選択の記録に過ぎないにも拘らず。
 
『憲法改正』とは言ってしまえば、防犯性や強度向上という『家屋のアップデート』と何ら変わるとところはない。
その単なる設備更新を考える時、家屋全体の改築や新築、ましてやその土地の地盤強度や来歴を検討する理由は見当たらない。