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http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13684649/

1956年5月19日、島根県の地方紙石見タイムズは、韓国当局に拿捕され抑留されていた漁船乗組員の石田儀一郎さんが、韓国の収容所から送った手紙を掲載しました。

「異国刑務所においてはこの世の地獄の生活を味わい、冬は零下15度を降(くだ)る、膚(はだ)を裂く寒さの中に相(あい)擁(よう)して暖をとり、夏は狭い監房の中で呻吟(しんぎん)し、格子窓越しの移りゆく四季に、
また漏れきたる三日月に我が身の不幸を嘆き妻子をしのび、思いを故国の山河に馳(は)せて耐えて参りました」(新字・新仮名遣いに編集部で修正)。

韓国の李承晩大統領は1952年1月、独断で公海上に排他的経済水域の境界線(李承晩ライン)を突如設定し、この海域内の無断立ち入りは許さないと一方的に宣言しました。

この宣言以前、韓国が建国される前の1947年ごろからも日本漁船の拿捕は始まっていましたが、李承晩ラインの設定はそうした動きをさらに強化するものでした。

「海上保安白書」(昭和41年版)によると、日韓が国交を回復する1965年までに、韓国当局は327隻もの日本漁船を拿捕。3911人の漁師を拘束し、うち8人が死亡しました。

拘束された漁船員に何が起きたかは、抑留経験者のグループがまとめたガリ版刷りの『韓国抑留生活実態報告書』や、その後刊行された『日韓漁業対策運動史』に詳しく記されています。

彼らは韓国に連行され、狭い部屋の中に大勢で閉じ込められ、しばしば刑務官から殴る蹴るの暴行を受けました。
拿捕された日本漁船の多くは李承晩ラインの内側に入っていなかったのですが、それでも「入った」という供述を求められ、従わなければ暴行されました。

日本からの差し入れ品の小包は刑務官たちによって横流しされ、劣悪な食事や不衛生な環境で腸チフスなどの病気も多発。
まともな治療も受けられずに病死したり、精神の平衡を失った状態で日本に強制送還された人もいました。まさに収容所は「この世の地獄」だったのです。