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仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに朝鮮への親征を行った(丙子胡乱)。
清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後40日余りで降伏し、和議が持たれた。
講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。
そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(三田渡の盟約)。
ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、
1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。

その後、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制より李氏朝鮮が離脱したのを機に、
「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門と同時期に倒され、地中に埋められた。
しかし日韓併合後の1913年には引き上げられ、さらに光復後(1945年)に再び埋められたり、と何度か滅出を繰り返した後、
大韓民国指定史跡第101号(1957年2月1日)に指定された。
1963年に洪水で流されたが、ソウル特別市松坡区石村洞 289-3(北緯37度30分11.92秒 東経127度06分25.44秒 )に復元された。
「朝鮮の屈辱の象徴」として、移転の願いなどがされた。

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