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▲「地方の靖国」のひとつ京都霊山護国神社の入口。
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▲寂寞とした坂本龍馬の墓。

最近訪れた日本の昔の都の京都には150年前の明治維新の痕跡があちこちに残されていた。
(中略:明治維新と坂本龍馬の説明)

薩長同盟と呼ばれるこの連合を斡旋した人物が「維新風雲児」と呼ばれる坂本龍馬(1836〜1867)だ。彼は同じ土佐藩出身の中岡慎太郎(1838〜1867)とともにこれを成功させたが、翌年に2人とも何者かに暗殺された。この2人の墓は故郷ではなく意外にも京都にあった。京都東部の霊山護国神社で彼らの墓を探した。2人並んで埋められた墓は素朴で、墓碑は歳月で色あせている。墓を眺めていると女子中学生3人が来て参拝した。司馬遼太郎の人気小説『竜馬がゆく』と、2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』など多くのドラマで封建制度を打破し万人が平等な世の中を夢見た青年として描写された龍馬の墓なのでそれだけのことはある。

問題は場所だった。案内書によるとここは「地方の靖国」と呼ばれ、日本全域に52カ所ある護国神社のひとつだった。霊山護国神社は戦没者の遺骨や英霊を安置し追慕する施設にとどまらなかった。目に付いたのはインド人法律家のラダ・ビノード・パール(1886〜1967)を賛える大きな碑石だった。太平洋戦争終戦後46〜48年に東京で開かれた極東軍事裁判に参加した11カ国12人の裁判官のうち唯一日本人戦犯全員の無罪を主張した人物だ。太平洋戦争1級戦犯を合祀した東京の靖国神社とともに日本に2カ所あるというパール判事の顕彰碑だ。近くには大東亜戦争記念碑が立てられていた。明治維新の契機を作った坂本龍馬の墓が靖国神社にあるのと変わらない格好だ。日本の近現代侵略の過去史を否定し明治維新で薄めようとしている感じを与えるのに十分だった

案内板によるとここは当初幕末と維新過程で亡くなった人物を追慕するために1868年5月に設立された日本初の官祭施設だ。現在は300人ほどの明治維新関連人物の墓とともに太平洋戦争で戦死した東京府出身者7万3011人の英霊を奉安する。維新追慕施設に侵略戦争の犠牲者をともに奉安しているのを見ると「歴史省察」や反省どころか、侵略美化にばかり熱を上げているという感を消すことはできない。

日本はアジアで自発的に近代化の道を歩んだ唯一の国だ。だが明治維新150周年を迎え反省や反復防止の努力、その被害者に対する配慮どころか侵略行為に対する無罪ばかり積極的に主張しているので見る人を気まずがらせるほかない。

政府文書を保管する東京国立公文書館では「江戸幕府、最後の闘い」という展示会が開かれていた。江戸幕府も末期には改革に乗り出して行政制度と軍隊革新に向け努力したという内容が核心だった。19世紀の中国の阿片戦争だけでなく遠く欧州フランスの大革命、ナポレオン軍に対する情報まで収集した内容が際立って見えた。明治維新の過程と関連した生き生きとした史料も調べることができた。264年間日本を支配した徳川幕府が統治権を返還した1867年の大政奉還、幕府を廃止し天皇中心の政府を立てた1868年の王政復古など、歴史と関連した史料を両目で見ることができた。軍艦を建造し海軍力を増強した過程も詳しく取り上げた。明治天皇の睦仁という署名が鮮明な1889年の大日本帝国憲法詔書と昭和天皇が47年に頒布した日本国憲法(平和憲法)詔書も展示された。45年8月15日に昭和天皇が降参する時に発表した「終戦の詔書」も見えた。2つの憲法と終戦の詔書は小さな写本を作って売ることもした。問題は150年を超える長い時期の史料を生き生きと展示しながらも侵略の歴史は目をそらしているという点だ。日本の近現代史で周辺国を苦しめた事実は忘却の対象であるだけで反面教師の大常道ではないのか。

ソース:中央日報/中央日報日本語版<風雲児坂本龍馬の墓、「京都の靖国」に変わる>
http://japanese.joins.com/article/875/242875.html

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