■ペリリュー島原住民を退避させた中川大佐

 パラオ諸島は第一次大戦後、日本の委任統治領となった。大東亜戦争が始まると、
日本はフィリピン防衛の防波堤として、ペリリュー島に東洋最大といわれる飛行場を建設した。

 フィリピン奪回を狙う米軍は、まずペリリュー島攻略から始めた。昭和19(1944)年9月15日、
ニミッツ提督率いる大機動部隊がペリリュー島沖合に現れた。

 空母11隻、戦艦3隻、巡洋艦約25隻、駆逐艦約30隻、その他に多数の水雷艇、掃海艇、輸送船
からなる大機動部隊が島全体を十重、二十重に包囲した。島から見れば、水平線がすべて敵船に覆い尽く
されているような光景だったろう。

 ペリリュー島には899名の原住民が住んでいた。彼らは産業開発や教育普及に尽くしてくれた日本に恩義を感じ、
全員一致で日本軍とともに戦おうと決めたが、中川大佐はそれを許さず、乏しい船舶をやりくりして、
空襲を避けて夜間に住民全員をパラオ本島に避難させた。[2]

 ちなみに、戦いが終わった後、帰島した彼らは多数の日本将兵の遺体を見て泣き、埋葬して、
その後も墓地の清掃を続けてくれている。[1]

http://blog.jog-net.jp/201411/article_7.html?pc=on