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北朝鮮高官は、なぜ次々交通事故で死ぬのか
不自然なほど多くが事故に巻き込まれている
2018/07/29 6:00
「北朝鮮ニュース」 編集部

北朝鮮の歴史で目を引くのは、多くの高官が交通事故で死んでいることだ。偶然で片付けるにはあまりにも不可解な点が多く、暗殺ではないかとの憶測が飛び交ってきた。これまでに、どのような北朝鮮エリートが交通事故死を遂げてきたのか。そのプロフィールをまとめたのが本稿だ。

南日は粛清を生き延びたが…

建国初期の北朝鮮高官で最も興味深い人物が南日(ナム・イル)だ。南はロシアの極東地域でヤコブ・ペトロビッチ・ナムとして生まれた。スターリン時代のソ連では教師をしていたが、1946年に妻と娘を残してソ連支配下の朝鮮半島北部へと移住、教育行政に従事する。

長年、教育に携わってきた南だったが、1950年に朝鮮戦争が勃発した後は、驚くべきことに人民軍総参謀長に任命される。姜健(カン・ゴン)将軍が戦死したことに伴う措置だった。1953年には人民軍大将(当時は、星3つの階級だった)となり、北朝鮮・中国側の主席代表として休戦会談で国連軍との交渉に当たった。

休戦協定締結後は、外相に就任。同郷のソ連系北朝鮮人、朴正愛(パク・チョンエ、民主女性同盟委員長)と協力して、最高指導者・金日成がソ連派の策謀によって失脚させられるのを防いだ。こうした功績を買われた南は1957年には副首相の1人に引き上げられている。

金日成に対する1956年のクーデター未遂(「8月宗派事件」)以降、ソ連派のほとんどが粛清されることになるが、方学世(パン・ハクセ、北朝鮮秘密警察の創設者)と並んで、こうした粛清を生き延びた数少ないソ連系北朝鮮人エリートの1人が南だった。

だが、1976年3月7日、南が交通事故死したと発表される。南の乗った車がトラックと衝突したというのだ。これは事故ではない、との憶測が飛び交った。金日成の息子・正日の仕業ではないかと見る向きもあった。後に最高指導者になる金正日は当時、朝鮮労働党の要職にあったとはいえ、南の殺害を表立って命じられるほどの権力はまだ手にしていなかった。金日成が抹殺を命じたとの見方もあった。

当時、ソ連に住んでいた南の息子は北朝鮮に行き、調査を行おうとするが、朴正愛からソ連に戻れ、そして事件にかかわるのはやめろ、と命じられる。
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