※続きです

当時、近隣の不良中高生の間では、朝鮮学校の生徒を通学路で待ち伏せしてケンカを挑み、相手を負かして学ランのボタンを奪って帰る、そんなタチの悪い遊びが横行していた。
奪ったボタンの数だけ、仲間内でハクがつくというのだ。
学校同士の抗争となれば、人数が少ない朝鮮学校の生徒は不利だが、だからって、ただ黙ってやられているわけにもいかない。
やられたらやり返す。その応酬がいつまでも続く。そんな時代だった。

生傷の絶えない戦場のような毎日の中で、もともとは気の優しかったPの兄も、次第にある種の凄みを増し、転校して1年も経たないうちに、いわゆる“ヤンキー”の世界にすっかり染まってしまった。
そんな兄も、今から20年前に、病気で他界してしまった。
Pには子どもの頃、兄から聞かされた忘れられない言葉がある。
“いいか、やられたら絶対にやり返せ。それも、次にまた仕返ししようなんて気力さえ失わせるほど徹底的にやれ。そうじゃなきゃお前がやられるんだ”

そんな兄の姿や、同様に在日コリアンとして生きる親戚の姿を間近で見ながら、Pは自分がどう生きるべきかを思い悩んだ。
「俺はもともと生真面目な性格だから。お前は朝鮮人だと親や親戚に言われると、そうか、俺は朝鮮人だ。
これからは朝鮮人として生きていかなきゃと思う。でも、兄や親戚を見てるとやっぱりいろんな葛藤があるわけよ」

自分は何者か。何者として生きるべきか。
大学に進学したPは、途中で1年休学し、留学生としてアメリカに渡った。
長い葛藤の中で、日本人にも、朝鮮人にもなりきれない不確かな自分のまま日本で暮らし続けることに耐えられないと感じていた。
いずれ日本で暮らすことをやめてもいいように、その準備をしておこうと考えたのだ。

Pの実家は、両親が日本に渡って以来、一代で築き上げた町工場。
決して裕福とは言い難い中で、Pを東京の私大に通わせてくれた。
そのうえ留学までさせてくれるというのだから、当然贅沢は言えない。

費用を最優先に検討した末、渡航先はミシガン州に決まった。
訪れてみてわかったことに、大学はとんでもない田舎町にあり、繁華街に出るには数時間車を走らせなければならない。
それでいて、貧乏学生のPには車を買えるような余裕もなかった。
しばらくは友人もできず、ホームシックになり、東京にいる友人に手紙を書いたりして過ごした。
それでもなんとか慣れてくると、アメリカでの生活はPに思いもよらない世界を見せてくれた。

「なんせアメリカには、純粋なアメリカ人なんてほとんどいない。メキシカンアメリカン、スパニッシュアメリカン、コリアンアメリカン。
いろんな国にルーツを持つ人たちがアメリカ人として生活している。
もともとの国の言葉のファミリーネームと、英語のファーストネームを堂々と名乗っている。
それで俺も、自分は日本で暮らすコリアンジャパニーズなんだって。ようやくそう思えたんだよ」

日本に帰国したPは、それまで使っていた日本の名字を、両親が本来持つ、韓国の名字にあらためた。
韓国の名字と日本の名前。それこそがPの、自分で選んで決めた生き方だった。

■簡単に捨てられないもの

「だけどね。そうは言っても情けない話、俺にはまだどっちつかずの部分も残ってるのよ。
日本でコリアンジャパニーズとして暮らしてる以上、さっさと帰化しちゃえばいいと頭では思っている。
それが世界的に見てもスタンダードだと思うしね。だけどどうしてもそこに踏み切れないわけよ。
自分でもなんでかわかんなかったんだけどさ。あるとき俺の大事な友達が言うのよ。
“誰かが長い間大事にしてきたものを、簡単には捨てられないよな”って。自分のことなのに他人事みたいに、あ、そうかってね」

理屈じゃないのだとPは言う。
日本に渡ってからのPの両親が、いったいどれほどの苦労をして生活の基盤を整えてきた

両親が背負ってきたもの、息子である自分に託されたもの。
それらの大きさを思うと、自分ひとりの意思で、簡単に手放すことはできないのだ。

※おわり〆