文化摩擦、事件
一方で、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、
席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[* 16]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[48]
 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[49]といった乱暴狼藉を働くものもあった。
警護にあたる対馬藩士が侮辱を受けることもあり、1764年(宝暦14年・英祖40年)には、
藩士が第11次通信使の随員を殺害した唐人殺しと呼ばれる事件も起きている。
事件の舞台は大坂の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が通信使一行の都訓導・崔天崇に杖で打ち据えられて、
夜中に槍を使って崔天崇を刺殺した。発端は、朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い」
と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてからの朝鮮人の窃盗行為を非難したことによる。
また、幕府は朝鮮への経過報告については対馬藩を通さず直接に伝えることを検討するが、
宗氏はこれに反対して交渉役を継続し、のちに倭館にて朝鮮側に経過を報告して好意的な返答を得た[50]。儒学者菅茶山は
「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し[51]。」と、
朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。宗家の宗義蕃は、朝鮮人が打擲をしたのは
日朝の風習の違いによるものとしつつ、通信使の随員が通詞を打擲した点を批判した[52]。
朝鮮聘礼使淀城着来図の一部『鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮通信使』[53]
友好使節のはずの朝鮮通信使が、当時の朝鮮人と日本人の間の文化の違いからかえって偏見を生み、
のちの征韓論や植民地支配に繋がったとする説もある[53]。
また、通信使を見物する際には、幕府から作法についてお触が出ていた。作法のなかには、喧嘩や騒ぎを起こさない、
2階や橋の上から見ない、指をさしたり笑ったりしないこと、などがある。しかし屏風図などの絵画には、
無作法な振る舞いで見物している姿も描かれており当時の日本人が朝鮮人を見下してたとされる。