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画=豊嶋哲志

 アジアの強国となった近代日本の大黒柱であり、大帝とも呼ばれた明治天皇の崩御が、国内外に与えた影響は計り知れない。とくに東アジア情勢は崩御の数年前から揺れ動き、やがて日本と裕仁親王、すわなち昭和天皇の運命を大きく狂わすことになる。

 その震源地は、朝鮮半島だ。

 そもそも明治維新以降、朝鮮半島は常に日本のアキレス腱(けん)であった。この地に西欧列強の、ことにロシアの勢力が深く入り込めば、極東の安全保障は重大な危機に陥る。

 日本が近代化を成功させつつあった頃、朝鮮半島を治める李氏朝鮮は中国(清)を宗主国とする冊封(さくほう)体制(※1)下にあった。朝鮮の地位が、列強の侵食が進む清の従属国のままでは将来が危うい。明治27年、日本は朝鮮の独立と指導権獲得を求めて清と開戦、勝利する。だが、日清戦争後も情勢は安定しなかった。朝鮮王室を中心とする勢力が、南下政策を進めるロシアに接近していったからだ。

 日本は朝鮮の内政改革を進めようとしたが、実権を握る閔妃(ミンビ・※2)ら守旧派の妨害もあり、成果をあげられなかった。

 イギリスの女性旅行家、イザベラ・バードが書く。

 「日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。『搾取』と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた」

 改革が進まない中、日本軍守備隊や大陸浪人、朝鮮訓練隊などが王宮内に乱入し、閔妃を殺害する重大事件が起きる。世界に悪名をはせた乙未(いつみ)事変だ(※3)。事件の背景や殺害の実行犯については諸説あるが、日本の全権公使、三浦梧楼が主導的に関わっていたことは明らかで、日本外交史上、最悪の汚点といえるだろう。

 事件後、国王の高宗はますますロシアに接近、混乱と危機が深まっていく。日露関係は緊張し、日本は国防上、ロシアと開戦せざるをえなかった。

 日本が朝鮮半島の指導権を確立するのは、日露戦争に勝利してからだ。日本は明治38年、国号を「大韓帝国」にかえた朝鮮=韓国と第2次日韓協約を締結、その外交権を接収した。ただ、韓国外交を統御する初代統監となった伊藤博文には、韓国の独立までを奪う気持ちはなかった。

 伊藤は39年2月、韓国赴任を前にした立憲政友会主催の送別会で、こう演説している。「日本は日本の独立を保全する為め巳むを得ず彼れ(韓国)を保護するにありて決して害意のものにあらざるを知らしむるを要する」

 韓国の独立を維持するには、前近代的な政治社会と決別し、法治を根付かせ、文明国の一員となさなければならない。それが自分にはできると、かつて日本の近代化をリードした伊藤は思っていた。

 伊藤は赴任後、韓国閣僚との協議会でこうも述べている。「自分ノ此ノ地ニ来任セルハ韓国ヲ世界ノ文明国タラシメント欲スルカ故ナリ」

 この言葉に、偽りはなかっただろう。統監の職務は外交だが、伊藤は韓国の政治指導者らの協力を得て、内政改革に奔走した。
(後略:続きは元記事で)

ソース:産経ニュース【昭和天皇の87年】 危うい朝鮮半島 伊藤博文は韓国を「世界ノ文明国タラシメン」とした
https://www.sankei.com/premium/news/180908/prm1809080010-n1.html

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