トヨタとの確執
 
住友銀行
戦後の1950年、トヨタ自動車は経営危機に陥った
当時、三井銀行・東海銀行と共に主力銀行の一つであった住友銀行は、
「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」
とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り取引を打ち切った
当時、トヨタとの取引銀行は都市銀行・地方銀行含め25行あったが、取引を断絶したのは住銀のみである
創業者の豊田喜一郎がこの責任を取り社長を辞任し、1952年3月に急逝した
その後、トヨタ自動車は順調に経営再建を果たし日本を代表する製造業となった
トヨタや関連企業は東海銀と三井銀行の2行を優遇し、
トヨタの恨みは凄まじく、
取引を断絶した住友銀行に対しては、石田退三や歴代のトヨタ社長が取引再開を許ず、50年もの間、トヨタ自動車に出入り禁止になった
1965年、トヨタは経営危機に陥ったプリンス自動車の救済を、同社のメインバンクである住友銀の堀田庄三頭取から懇願された
トヨタの石田退三会長は
「鍛冶屋の私どもでは不具合でしょうから」
と堀田頭取の要請を拒絶した
トヨタ自動車と住友銀行との取引再開が本格化するのは、2002年合併により三井住友銀行が発足してからで
その際、トヨタに対しかなりの根回しがなされ、取引窓口は旧三井銀出身者に限ってとの条件でである

三菱銀行
三菱銀行は、1950年トヨタの倒産危機の時に再建案に消極的で、最終的に再建案に同調するが、これがたたった
三菱銀行のトヨタとの取引は、海外決済などに限られ、三菱銀行がトヨタと本格的に取引を始めるのは
トヨタを主力取引先とする旧東海銀行が三菱東京UFJ銀行になってから

川崎製鉄
トヨタの経営危機の時、取引先への支払いの猶予にただ1社協力を拒んだのが川崎製鉄で
危機を脱したあともトヨタは川崎製鉄とは取り引きせず、川崎製鉄が2003年に日本鋼管と経営統合し
JFEスチールとなるまで取り引きは復活しない


日本で一番に私情や私怨が強い会社の看板の上に立つパフォーマンスが、「知らなかった」で済むとは思えない