・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
china戦果
明・朝鮮連合軍は多くの戦死者を出し、島津軍の報告によると3,8717人、明側の報告によれば8万余りが討ち取られた。
この戦いによって島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武威は朝鮮だけでなく、明にまで響き渡った。


勝敗の原因
泗川の戦いでの明軍の数は今もなお不明だが、敗戦側である明の記録によると戦死者は約8万とあり、最低でも8万以上の兵士が投入されたと思われる。
これでも戦死者を過小報告している可能性もある。
当時、敗戦の将は責任を取り打ち首という場合もあったため、功績は過大に、失敗は過小に報告するのが普通であった。
戦術面では、篭城側の島津軍はもちろん、包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を長期間養う食糧は無かったと見られ、双方短期決戦しかなかったと推測される。明・朝鮮軍は当初、島津はわずか7000程度のため攻略を比較的楽観視していたと思われる