チョウセンジンが 何故 広島にいたのか?



■半島の朝鮮人にとって、戦前から、日本は憧れの地だった■

★証明書を偽造して、日本へ働きに行きました。

『もうひとつのヒロシマ』 朴 壽南 1983 (「アリランのうた」制作委員会)からの引用
同書はマスコミがよくとりあげる「朝鮮人被爆者の証言集」ですが、その中には彼らの本音も
「削除」されずに収録されています。

●三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現
金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。
 五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、
水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それか
ら、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。
「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。
 この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本き
たんじゃ。(略)

●うちが、13の春じゃった。となりの村、15になる娘がおったんじゃ、これ、募集屋
来てからの、紡績工場連れていったんじゃが、この娘が働いてから、何十円か、金、送っ
てきたゆうて、はぇ、村中、えらい評判立ったんじゃ。(略)

うちはその話きいてからの、(略)「日本の国、行かして下さい、日本の国行くんじゃ」
なんぼ、頼んで泣いても、お父さん、きかんのじゃ。
★「とんでもないこと言いだしおる! 女がよその土地、出かせぎに行くのは賎民らのす
ることじゃ…」言うて、はぇ、頭っからきいてくれんのよ。…うちは、村でもの、大けな
家じゃったけえ、瓦屋根の、両班じゃったけえ、まあ、喰うに困る暮らしじゃないしのう、
なんぼ頼んでも、行かしてくれんのよ。 

 あれが、うちが14のときよ。一つ上のいとこの姉さんがの、日本行って帰ってきた人
に嫁入りしたんじゃ。それが、こんど日本いっしょに行くんじゃ言うての、挨拶しにきた
んじゃ。…うちは姉さんがうらやましゅうてのう、うちもついて行きとうて、かなわんの
よ。家の門まで見送り出たのが、はぇ、村の外までついて言ってからの、うちが泣いて、
泣いて、どこまでもついて行きおるじゃけ、「いっしょに日本行くんじゃ」言うての。そ
れでとうとう、うちのお母さん、あきらめたのよ。「よろしゅうに頼みます」包みつくって。
 それで、いとこの姉さん夫婦について馬山から釜山に出ての、釜山の旅館、ひと晩泊ま
ったんじゃ。はぇ、釜山の町も旅館も、日本行く人らでものすごかったんじゃ。
★うちは、急にこうなったんじゃけ、証明書(渡航許可証明書)がないんよ。それが、旅
館で知りおうた女の人、30ぐらいのおばさんがひとりおったんじゃ。この人の娘じゃい
うて、連絡船乗ったんよ。(略)