■ 大法院(最高裁)判決を控えた勤労挺身隊ハルモニたちの事情は

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日帝強占期の徴用被害『少女』が80歳を越える『ハルモニ(お婆さん)』になり、日本の戦犯企業・三菱重工業を相手に起こした損害賠償訴訟に対する大法院(最高裁)の判決が29日に出る予定である。

『勤労挺身隊ハルモニ』と呼ばれるこれらの数奇で胸の痛む事情が、今回の裁判をきっかけに再び関心を集めている。

ヤン・グムドクさん(89歳)は留学の道だと思って行って『地獄』を経験した。日帝強占期である1944年5月30日、全南(チョンナム)羅州(ラジュ)小学校の6年のある教室に、日本人の担任教師と校長、憲兵が突然入って来た。

これらは、「日本に行けばお金も稼げて勉強もできる」とし、小学生に『留学』を勧めた。誰も手をあげなかったため、担任教師は班長のヤン・グムドクさんを指名した。

ヤンさんは飛び上がるほど嬉しかった。日本がどこにあるのか知らなかったが、ただ「思いきり勉強ができる」という思いで嬉しくてときめいた。

数日後。 ヤンさんは友だちや先輩など24人と羅州駅から汽車に乗って麗水(ヨス)へ、麗水港から船に乗って日本に到着した。

名古屋の三菱工場で荷物を開いた途端、嫌な出来事が始まった。 労働の厳しさは韓国で予想したレベルではなかった。強いシンナーとアルコールで飛行機部品の錆を磨かなければならなかった。また、その上からペンキ塗りをしなければならなかった。

トイレに行くには『班長』と呼ばれていた日本人に会わなければならなかった。食事も十分に提供されなかった。他人が食べ捨てたご飯を常に拾って食べていた。辛い(つらい)労働で嗅覚が麻痺するなど、身体の具合はますます悪くなった。

日本での地獄のような生活が終わったのは解放後だ。ヤンさんは1945年10月になって、ようやく夢に見た故国に帰る事ができた。日本で毎日涙を流しながら懐かしく思っていた故国だったが、さらに辛い(つらい)生活が続いた。日本で働いていたという理由から、『お手軽女』の扱いを受けたのである。

男たちは、「一晩一緒に遊ぼう」と冷やかした。お見合いをしたが、日本で働いていた事がばれ、男たちとの連絡は途絶えた。

日本での悲惨な生活にも耐えきったが、光復から数十年経った現在でも、「あそこに “慰安婦ハルモニ” が歩いている」という小声で話す声を耳にする。勤労挺身隊と慰安婦を勘違いした人々の言葉である。

キム・ソンジュさん(89歳)は1944年、全南(チョンナム)順天南(スンチョンナム)小学校に通っていて、「日本に行けば思いきり勉強する事ができる」という言葉に騙されて日本に行った。

日本人の嘘に騙され、父親の判子を盗んでまで名古屋の三菱工場に向かったが、毎日が地獄だった。幼い年齢でカッターを使って金属板を切断する仕事が与えられた。

安全装置はおろか、手袋さえも支給されない状況で仕事をした。結局、事故が起きた。カッターで左指1本を切断したのである。

1944年12月には大地震が起きた。辛うじて命は救われたが、膝の骨が飛び出す程の重傷を負った。まともな治療は期待する事ができなかった。

ある日、「韓国にいる弟が死んだ」という消息を聞いた。無条件で故国に帰ろうとしたが、「行く事はできない」という返事が帰ってきた。

キムさんは自分の妹も、「日本に行けばお姉さんに会える」という言葉に騙されて日本の工場で働いているという事を知った。解放後に故国に帰ったが厳しい生活が続いた。結婚はしたが、日本に行っていた事がばれて夫と別れる事になった。

もう一人の原告であるパク・ヘオクさん(88歳)も順天南小学校を卒業した直後の1944年、学校長の勧めで動員され、イ・ドンリョンさん(89)も羅州小学校を卒業後の1944年、日本人の担任の勧誘で日本に行く事になった。

前述のハルモニたちと同様、様々な苦労を経験して韓国に帰って来た。その後韓国でも様々な誤解で精神的苦難を受けた。

4人のハルモニは2009年、日本の厚生年金『99円』事件の当事者でもある。

(以下、略)

ソース:NAVER/光州=news1(韓国語)
https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&;mid=sec&sid1=102&oid=421&aid=0003715678