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これそっくりだな

■中国に朝貢できなかった日本はアジアで一人ぼっちだった〜カン・ヒョバック慶煕大教授
「朝貢」という単語が出たついでに一言確かめておこうと思う。「朝貢」といえば、しばしば「上納」を
連想する人々が多い。「朝貢」を事大主義のしるしとして恥かしく思ったり、余計な歴史的劣等感に
陥る我が国の人々も結構いる。しかし、これは日帝植民史観に基づいた歪曲された歴史教育が
残した認識上の誤りだ。朝貢は一方的な上納ではなく物々交換形式の政府主導型貿易だ。

国境地域に開設された市場で行われる国境貿易でも、民間商人による貿易を禁止し国家から任
命された官庁への納品商人らに貿易商品の調達権を独占させた抑商政策の足かせを跳び越え
る巨商の活躍像を描いた小説[商道]でも、盲人やもめの目を開かせるために供養米三百石に人
身御供になって死ぬ[沈清伝]に出てくる密貿易など、このような極くまれにある民間貿易形態以
外は朝貢貿易が最も重要な比重を占めた。

一言で朝鮮時代の貿易形態の主流は朝貢貿易だった。朝貢国から朝貢を捧げれば事大国では
賜与を下す。賜与品が朝貢品より何倍も多いのが原則だった。そのため朝鮮は朝貢を1年に3度
捧げたところを1年に4度捧げるよう要請したが明は越南(ベトナム)のように3年に1回だけ捧
げるよう丁寧に頼んだ。明国滅亡の主因の一つは過度な賜与品の放出による国庫の枯渇だった。

中国は冊封関係(上司の命令に服従関係ではなく儀礼的な外交形態)にある国に対してだけ朝貢
貿易を許した。中国的朝貢秩序の同心円(<絵1>参照)の中に入っている朝鮮(毎年三貢)と琉球
(隔年1貢)、越南(3年1貢)は中国と最も密接なインナーサークルの一員だった。

これと反対に日本はきわめて短い時期を除いては東アジア帝国の中で特に朝鮮と比較して中国
に朝貢を捧げなかった、中華秩序の外で自由に活動した唯一の国のように教科書に記述してい
る。しかし厳密にみれば日本がそうしようとしたのではなく、そうなったのだ。中国との朝貢貿易
をせずとも日本は倭寇(日本では倭寇を主に‘民間貿易会社’と美化して呼ぶ)の輝かしい活躍(?)
を始めとして琉球を通じた仲介貿易、オランダとの交易などで貿易需要を充当できたためだった。

中国と朝鮮、琉球をはじめとする東アジア諸国は日本を主に「倭」または「日域」と称してきた。倭
と呼ぶ底辺には日本を倭寇の本拠地とさげすむ語感が込められていたし、日域と称する裏面には
日本を中国的世界秩序の同心円内のメンバーとして共にするには不適切な「国家」としての資格
に達しない「地域」と見る視点があった。自主独立の歴史を自負してきた日本は事実上、東アジア
国家社会でのアウトサイダーないし一人ぼっちであった。

文/カン・ヒョバック慶煕(キョンヒ)大国際法務大学院中国法務学科教授
筆者紹介:慶煕大学校法科大学を卒業して台湾国立師範大学で学んだ後、台湾国立政治大学で
法学博士学位を受けた。北京大学と中国人民大学、中国華東政法大などで講義をしたこともあり、
駐台湾代表部と駐上海総領事館を経て駐中国大使館外交官を12年間歴任したことがある。

ソース:デイリアン(韓国語) 朝貢をできない日本はアジアのいじめであった