【10月6日 AFP】1985年のある夏の日、7歳のジョ・ユンファン(Jo Youn-hwan)さんは混雑する韓国・ソウルのバスターミナルで、泣きながら母親が戻って来るのをじっと待っていた。

 バスターミナルで待っているようにとの母親の言葉に従っていたジョさんだったが、辺りが薄暗くなると不安がどんどん募っていった。そしてその後、母親が戻ってくることはなかったという。

ジョさんは韓国の孤児院に収容された。韓国は長年にわたって世界有数の養子輸出国だったが、養子を望む人にとってジョさんの年齢は高すぎたのだ。

 新しい家族に引き取られることもなく、ジョさんは20歳になるまで施設で過ごした。ジョさんによると、施設は危険に満ち、厳しい階層的組織だったという。子どもたちは治療可能な病気で命を落とし、大きい子どもたちが小さい子どもたちをいじめるのは日常茶飯事だった。

 ジョさんは、養子に行ったらどうなっていただろうと常に思い、きっと「こんなに『恨(ハン)』に満ちた人生ではなかっただろう」との考えに長年とらわれてきた。恨とは韓国語で消えることのない悲しみと恨みを意味する言葉だ。

 だが、養子に行った子どもたちの多くも、実は同じような疑問を胸に抱いていた。

■家父長制の社会

 朝鮮戦争(Korean War)後、数多くの子どもが韓国から養子縁組に出されるようになった。民族的同質性の重視から、韓国人の母親と米兵の間に生まれた子どもたちを国から出す動きだった。

 しかし近年では、未婚の女性が出産した子どもを養子に出すケースが増えていった。歴史学者によると、家父長制の社会ではこうした子どもたちがのけ者扱いされるため、しばしば母親たちは子どもを諦めなければならない状況へと追い込まれるのだという。

 国内での養子縁組は少なく、孤児の大多数が成人するまで施設に残った。養子として国外に出た子どもは約18万人に上り、その多くは米国の里親のもとへと向かった。

■もし韓国だったら…

 韓国系米国人の映画監督、グレン・モーリ(Glenn Morey)さんは1960年、ソウルで生まれた。生まれて間もなく実親に見捨てられ、生後6か月で白人米国人夫婦の養子となった。

 モーリさんは、コロラド州デンバー(Denver)で育ったが、学校では自分以外みな白人で、溶け込むのが大変だったという。

「成長過程で毎日困難に直面して…少なくとも他のみんなと同じ外見をしている韓国だったら…韓国で育っていたらどうだったのだろうかと考えるようになった」

 モーリさんは監督作『サイド・バイ・サイド(Side by Side、原題)』で、この問いに答えを出そうと試み、一定年齢を迎えて施設からの独立を余儀なくされた12人を含む、韓国で過去数十年間に孤児となった人々を対象にインタビューを行った。

■母親のうそ

 韓国では血筋が重要視されており、親に捨てられたという事実は一生付きまとう。就職や交際における差別もある。そのため、孤児院で過ごした過去を義理の家族や配偶者、雇用主に秘密にしている人もいるとジョさんは話す。

 ただ、ジョさんの境遇は少し違った。勉強ができたことから孤児院の施設長が大学の学費を提供してくれたというのだ。現在はタクシー運転手として働き、結婚して自分の子どももできた。また、年齢を理由に施設からの独立を余儀なくされた孤児のための権利団体も立ち上げた。このような団体はこれまで韓国にはなかった。データによると、メンバーの93%には犯罪歴があったり、ホームレスだったり、また違法産業で働いていたりした過去があったという。

「これが我々の現実」とジョさんは話す。

 昨年、ジョさんはついに母親と再会した。しかし、疑問が解消されることはなかった。

 母親は、ジョさんの父親がギャンブル中毒で虐待行為にも及んでいたことを打ち明け、またそのような状況から逃げだすために別の男性との結婚を模索し、そのために過去を隠す必要があったと説明したという。

 しかし、この説明にジョさんは、「なぜ少なくとも母は、私を父や祖母に預けなかったのだろう。なぜ父親に私が死んだとうそをついたのだろう」と解せない様子で語った。

「自分の中でまだ整理できてない。とても、とても難しい」 (c)AFP/Claire LEE

https://www.afpbb.com/articles/-/3241865
2019年10月6日 11:45