>>851
「バイオレンス・コードに抵触するから、規制しといたほうがいいよ」
という世間知と、
「これはどうしても言わないといけないから、犯罪起きる可能性があっても言う」
という表現者魂とは、しばしばぶつかる。

問題は「どちらを『通す』かをどうやって決めるか」だ。
解決方法がない、と考えたら、韓国経済が沈没するまで待つしか無い、
といった消極的な解決を待つことになる。

しかし、「沖縄は民族か」「アイヌは民族か」「民族なら新時代には独立する権利があるんだ!」
「しかし独立したら中国がスパイを送り込み台湾みたいに…」
といった争いごとが、韓国抜きでもたびたび起ってくる。

そのとき、それぞれどうやって『通す意見』を決めればよいのか。
その方法を占うカギは「気合い」にある。

たとえば「ある集団が民族がどうかは、何によって決まるか」と問えば、
明確な答えは無いことがわかる。明確な答えは無いので、
「日本民族は存在する」ともいえるし、「日本民族は存在しない」とも言える。

朝日・赤旗の文化圏は、ずっと以前から「日本民族は存在しない」の認識で通してきた。
しかし「朝鮮民族は存在しない」とは絶対に言わない。
そう言ったら、朝鮮統一もする理由がないことになるし、
大韓民国が独立した理由も無いことになる。

民族は存在するかしないかは「気合い」で決まる。
仮に沖縄人が総意で「沖縄は独立すべき」「中国のスパイ・干渉は、意地でも食い止める」
「たとえ日本国の助けが無くても貿易・国防・国家運営を永遠に続けていく覚悟がある」
と鉄の意志で連帯すれば、沖縄は民族であると堂々と主張できる。
(これまで不当に日本国に統合されていたという大問題な歴史観が出てきて大変だが)

今の沖縄は「そこまでの気合い」が無いから、民族を名乗れないし、
そこまで追い込まれていないから、気合いを持つ必要が無いとも言える。
かっこうよく言えば「信念」ニュートラルな言い方なら「気合い」。
ニュートラルで「気合い」というのが肝心だが、
こういうものによって、伝統・正当性・行動動機・対外主張はかたちづくられる。

「言論」も同じである。対論がバイオレンスコードであろうと、ヘイトの印象値であろうと、
根本は同じ。鉄の信念による「気合い」を持っているか、
それだけの気合いを持つだけの「さしせまった危機感」を持っているか。

これによって「言論」は、世間知をブチ破って「押し通される」。
「言論」とは、常に「押し通されるもの」なのだ。様々な要因から「押し通せなければ」、
その気合いは気合いたり得ず、「通す価値の無い言論」だったとなる。