日韓歴史共同研究(つい9年前まで8年間もやっていた!にもかかわらず・・・ぽしゃる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日韓歴史共同研究
第 1 期:2002.05-2005.06
第 2 期:2007.06-2010.03
■研究開始の背景
2001年の日韓首脳会談(小泉x金大中)
W杯共催及び日韓国民交流年である2002年を迎えるにあたり、相互理解と友情育成のため
https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/korea02/gaiyo.html

■挫折の原因・・・委員の1人である木村幹があげた3点
「政治的意図の介在」
「共同研究の制度的不備」
「対立を解決する為の手段の準備不足(全会一致か多数決かという基本的なルールさえ存在しなかった)」の3点
*つまり、ファンタジー(韓国)とファクト(日本)の違いが白日の下になったということ

■日本側研究者が見た韓国側研究者の態度
・第1回研究
参加した古田博司によると、日韓の意見が対立した時に、日本側が「資料をご覧になってください」と言うと、
韓国側は立ち上がって「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と怒鳴り、
日本側がさらに「資料を見てくれ」と言い返すと、
「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と怒鳴ったという。

このような韓国側研究者について古田は、「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、
それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、それ以外の様々な資料を検討していくと、
矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、
その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、したがって
何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」等々、批判的に評している[4]。

・第2回研究
日本側委員の一人だった永島広紀によると、韓国側では日本側に無断で教科書問題を古代史の研究テーマに
加えようとするなど、教科書担当以外のグループが教科書問題に介入を始めた。
日本側が抗議すると、韓国側の古代史担当者の一人が「人格攻撃を受けた」と言い出し、
長期間会合が紛糾したこともあったという。
永島によれば、韓国側の研究者は扶桑社の『新しい歴史教科書』への攻撃に終始していた[5]。