問題の本質は「表現の自由」ではない
安田浩一 / ジャーナリスト

 部屋の隅で、おかっぱ頭の少女≠ヘ怯えていた。膝の上でぎゅっと握られたこぶしに、さらに警戒の力が加わった。少なくとも私にはそう見えた。

 スーツ姿の男性が少女に近づいた。どこか投げやりな歩き方とニヤけた表情は、純粋に「鑑賞」を目的としていないことだけは明らかだった。スタッフや来場者の一部に緊張が走る。

 男性は少女を一瞥し、「ふんっ」と鼻で笑う。続けて軽く舌打ちし、その場を離れた。相変わらずニヤけながら、しかし、そこには間違いなく侮蔑の色も同時に浮かんでいた。

 結局、それだけのことだった。ただそれだけのために、男性は長い行列に加わり、抽選に参加したのだろう。

 「よかった」。安堵したスタッフの一人がそう漏らした。

 またか、と少女は思っただろうか。あるいはこうした場面に慣れてしまったことを、さらに悲しく感じただろうか。

 平和の少女像――元従軍慰安婦を題材としたこの作品は、侮蔑され、罵倒され、貶められながらも、それにじっと耐え続けることで、日本社会の一部に確実に存在する無知も、醜さも、そして差別と偏見をも浮き彫りにした。

●展示再開にも無念と苛立ち

「あいちトリエンナーレ2019」が閉幕し、拍手で来場者を見送る津田大介芸術監督(右から2人目)や愛知県の大村秀章知事(右端)=2019年10月14日夜、名古屋市東区の愛知芸術文化センター

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」)が再開された直後、私は会場となった名古屋市の愛知芸術文化センターを訪ねた。2カ月間にわたって閉鎖されていた「不自由展」展示スペースは、どこかピリピリした緊張感に包まれていた。

 鑑賞は一度に30人ほどで回るツアー形式で、入場者は抽選で決められる。会場入り口ではSNSへの投稿や妨害行為の禁止を告げられたうえで、同意書へのサインを求められた。誰に対しても開かれた場所であるべき芸術祭で、このような措置は不自然極まりない。

 この日、会場に姿を見せた少女像の生みの親である彫刻家のキム・ソギョンさん、キム・ウンソンさん夫妻も、「どんな素晴らしい作品でも、こんな待遇は受けたことはないはずだ」と、複雑な胸中を口にした。

 もちろん、それは主催者の側だって同じだ。スタッフの一人は私にこう告げた。

 「こうするしかなかった。大事なのはやり遂げる≠アと。変則的な形であったとしても、圧力に屈してしまったという結論を残したくない」

 無念をにじませたその表情からは、問題とすべきは主催する側ではなく、他にあるだろうという苛立ちのようなものも見て取れた。

 その通りだ。問題を引き起こしたのは主催者でも少女像でもなく、暴力や権力を背景に、恫喝を加えた側だ。

 そもそも「不自由展」は、テロまがいの脅迫や激しい抗議によって、開幕からわずか3日で一度は中止に追い込まれたという経緯がある。

 トリエンナーレ実行委員会事務局によると、開幕からの1カ月間だけで、同事務局と愛知県庁が受けた抗議は1万379件。

 抗議の9割は匿名で、そのうちの半数が少女像を問題としたものだった。

 なかでも「電凸」と呼ばれる電話による抗議に関しては悪質なものが多く、「サリンをまく」「高性能な爆弾を仕掛けた」「愛知県職員を射殺する」といった殺戮予告もあった。非通知で電話すれば絶対にバレないのだと思い込んでいるからであろう。また、脅迫じみたメールでの抗議も、やはり海外のサーバーを経由させるなど、足のつきにくい仕掛け≠講じていることも特徴だ。

朝日新聞:論座
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2019112600006.html