「1920年の朝鮮日報・東亜日報の無期停刊措置は第2の三・一運動を防ごうとする言論統制」

 「日帝は1920年、独立軍討伐作戦を実施するのに先立ち、言論民族運動を展開してきた朝鮮日報・東亜日報をそのままにしておいたら韓国内部で頑強な抵抗があることを予見し、民族2紙を無期停刊させたのだった」

 1920年6月の「鳳梧洞の戦い」で洪範図(ホン・ボムド)、崔振東(チェ・ジンドン)らが率いる独立軍連合部隊に惨敗した日帝が、軍事報復を強行する前、民族紙から無期停刊させた−という学説が提起された。シン・ヨンハ・ソウル大学名誉教授は、最近出版した『日帝の韓国民族抹殺・皇国臣民化政策の真実』(文学と知性社)で「朝鮮日報・東亜日報など韓国の言論機関がこれ(日帝の報復軍事作戦)を報じ、韓国人を奮起させることを恐れて、事前に停刊させておいて作戦を始めようとした」と主張した。民族紙の報道があふれ返った場合、1919年の三・一運動と同様の抵抗へと広がっていくことを懸念し、日帝が事前に言論弾圧に乗り出したというのだ。

 朝鮮日報は1920年3月5日の創刊直後、3カ月間の販売・頒布禁止やおよそ20回の差し押さえ処分に遭うなど、厳しい弾圧を受けた。同年8月27日には、訪韓した米国議員団を歓迎する朝鮮人らを日帝の警察が不当に弾圧したと批判し、民間紙としては初の停刊に遭った。1週間後に停刊が解かれると、9月5日付の紙面で「愚劣な総督府当局はいかにしてわが日報を停刊せしめたか」という論説を載せ、再び停刊措置を受けた。今度は無期停刊だった。

 実際、日帝は「鳳梧洞の戦い」で惨敗した2カ月後の1920年8月、「間島地方不逞(ふてい)鮮人掃討計画」という独立軍弾圧作戦を立てた。9月初めには5個師団およそ2万5000人の兵力動員計画まで用意した。朝鮮日報・東亜日報に対し無期停刊措置を下した時期とも一致する。その後、1920年10月から日本軍は間島一帯の韓国人およそ3400人を無残に虐殺する「庚申(こうしん)惨変」を引き起こした。朝鮮日報に対する無期停刊措置は同年末にようやく解除された。

 シン名誉教授は、1920年に日帝は民族紙創刊を許可しつつも配布前検閲・削除・配布禁止・停刊・廃刊などの弾圧体制をあらかじめ作っておいて、表向きは「文化政治」を旗印とした−と明かした。実際、朝鮮総督府警務局の資料によると、1920年代の日帝の新聞差し押さえ件数は▲朝鮮日報348件▲東亜日報325件▲時代日報111件の順となっている。シン名誉教授は「当時、言論人は愛国志士のように日帝の弾圧に対抗しつつ新聞・雑誌を発行した」と語った。

キム・ソンヒョン記者

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朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2020/03/05 17:01