<戦後75年>日本と韓国 歴史の「影」を忘れない


◆日露戦争から学ぶこと

しかしこの戦争は、日本と周辺国に深い傷を残しました。日本軍の組織的な欠陥を指摘し、幅広い層で読み継がれている「失敗の本質」という本には、
日露戦争のことが繰り返し出てきます。文庫になり、累計約九十万部にも達するロングセラーです。

日露戦争での海戦で、日本海軍が幸運にも勝利したため、「大艦巨砲、艦隊決戦主義が唯一至上の戦略オプション」(同書)となりました。
この考え方に固執したまま米国と戦い、多くの犠牲者を出し、最終的に敗戦につながったと分析しています。

同書はあとがきで、「組織としての日本軍の失敗に籠(こ)められたメッセージの解読が、今日なお教訓となっていないのではないか」とも投げかけています。
このような一面的な歴史観は、近年日韓関係で顕著です。

日本政府は、今年「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)をオープンさせました。
この施設の展示内容が物議を醸しています。長崎市の端島炭坑(別名・軍艦島)での朝鮮人への虐待について
「聞いたことがない」とする元島民のインタビュー動画が含まれていたからです。

同センターの関係者が四年以上にわたり、七十人近い関係者に聞き取りをした結果だそうですが、韓国政府は反発しています。

端島を含む「明治日本の産業革命遺産」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されることになりました。
この時日本政府は、ユネスコ世界遺産委員会の勧告を受け、「意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた朝鮮半島出身者がいたことや、
日本政府の徴用政策が理解できるような措置を講じる」と表明しました。韓国政府は、この約束が展示の中で守られていないとしています。

この島に住んでいた人たちにとって、自分の故郷で差別待遇があったことを認めるのは愉快なことではないはずです。
しかし、同じ環境にいても受け止めはさまざまでした。満足した人もいれば、耐えがたいと感じた人もいた。

そもそも、朝鮮半島から来た労働者が過酷な労働を強いられ、差別的な待遇を受けていたとの証言は少なくありません。

例えば、十四歳で端島に送られ、その後、長崎で原爆被害に遭った徐正雨(ソジョンウ)さんは、狭い部屋に自分を含め七、八人が入れられ、落盤の危険のある坑道で働いた。
体を壊して仕事を休もうとすると、リンチを受けたとの証言をしています。こういった多様な記憶全体が、島の歴史であり、価値でもあるでしょう。

日韓間でこじれている元徴用工問題も同じです。日本政府は、「一九六五年の協定で解決済み」としています。
法律や協定を理由に突き放す前に、当時の苦痛に共感する姿勢を示していれば、状況は変わっていたかもしれません。

もちろん韓国にも、過剰反応と思える面があります。しかし過去の経緯に立てば、日本がまず歴史に謙虚になる必要があります。

世界的ベストセラー「銃・病原菌・鉄」の筆者、ジャレド・ダイアモンド氏は、最近、歴史問題に関連し、日本にこんなアドバイスをしています。
感情抜きの謝罪文を何回読んでも、相手は納得しない。「中国や韓国が日本を信用し、怖がらないように絶えず話しあうことだ」(「コロナ後の世界」)。

隣国と友好関係を維持することは自国を守る第一歩です。足を踏んだ人は、踏まれた人の痛みが分からないといわれます。
戦後七十五年が過ぎても、歴史をめぐってまた相手の足を踏むような行為をしていないか。立ち止まって考えたいものです。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/48277