「祖父とあゆむヒロシマ」(風媒社)は、名古屋大大学院で学ぶ愛葉由依さんと、昨年暮れに九十三歳の天寿を全うした祖父、加藤浩さんの、旅と対話の記録です。「今は言える、自由に。」というサブタイトルがついています。

 名古屋生まれの名古屋育ち、家業の木工場で働いていた浩さんは、十八歳で応召し、広島県大竹市の大竹海兵団に衛生兵として配属されました。

 一九四五年八月六日、広島に原爆が投下された時、海兵団の練兵場で朝礼の最中でした。

 爆心地から三十キロ離れていたにもかかわらず、尻もちをつくほどの強烈な爆風と揺れに見舞われました。きのこ雲が東の空に、<ぐぉーん>と上っていくのが見えました。

◆ヒロシマへ連れてって

 翌七日から十一日まで、衛生兵の浩さんは、広島市内で救護活動と遺体の処理に携わり、残留放射線にさらされました。いわゆる「入市被爆者」です。

 終戦後すぐに名古屋へ帰還しましたが、「被爆者援護手帳」を取得したのは、被爆から十二年後のことでした。

 由依さんが祖父との旅を思い立ったのは、かねて関心を寄せていた「祖父のライフヒストリー」を卒業論文のテーマに選んだからでした。

 「一緒に広島へ行きたい」−。二〇一五年八月、<大好きなおじいちゃん>との長い旅が始まりました。浩さんの記憶をたぐり、共有を試みる旅でもありました。

 軍隊生活を送った大竹の街、<一人でも助けたりたいで>と救護に走り回った爆心地の近く、全身にやけどを負った被爆者が運び込まれた広島赤十字病院、そして広島平和記念資料館…。

 そのころ資料館の二階には、被爆再現人形の展示がありました。

◆直視する勇気をもらう

 焼け焦げた衣服をまとい、ただれた皮膚を指先から垂らし、がれきの中をさまようリアルな造形に、見学者から「怖い」という声も寄せられて、昨年のリニューアルまでに撤去されています。

 中学三年生の時、自治体の平和事業に参加して、初めて記念館を訪れた由依さんは、人形をまともに見ることができませんでした。

 七年ぶりに再びそこに立った時、となりで祖父が言いました。

 <あの指先見てみよ。指先からな、皮から。こういうとこ全部出とるんやで、油が>

 祖父の言葉に「被爆の実相」を直視する勇気をもらい、由依さんは、戦争について、平和について、考えを深めていきました。

 浩さんは、ある時しみじみつぶやきました。

 <軍隊っちゅうのは、秘密で何にも喋(しゃべ)れんの。戦地へ行ったことも苦しいことも、喋らなんだんだで。被爆の『ひ』の字も言わなんだよ、(戦後)五十年の時は>

 今やっと話すことができる。話さなければならない。伝えたい−。浩さんの思いをくみ取って、由依さんは本を書いたのでしょう。

 時には祖母や母を交えて、浩さんが亡くなる半年前まで計六回の広島行き。由依さんのICレコーダーには、延べ約百時間分の会話が記録されています。いわば自分自身とこの国の未来を示す羅針盤。由依さんにとって、かけがえのない「宝物」になりました。

 今年被爆七十五年。全国に散らばった被爆者の平均年齢は、八十三歳を超えました。歴史の風化は進んでいます。

 八月九日の長崎平和祈念式典。田上富久長崎市長は、世界に向けて呼びかけました。

 「体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちに警告を発し続けてきた被爆者に、心からの敬意と感謝を込めて拍手を送りましょう」。テレビの前で、思わず応じたものでした。

 由依さんに、今、浩さんに聞いてみたいことがありますか、と尋ねると、「コロナ禍のこの時代をどう生きればいいですかって−」と、即座に答えてくれました。

 同調圧力、監視の目、ものを言いにくい空気感…。浩さんが耐え抜いた、あの暗くてつらい時代と共通項があるようで。戦争と平和についてだけではありません。コロナ、原発、異常気象…。不安の時代を乗り切るためのヒントはきっと、長い人生の中に蓄積されて結晶化した、お年寄りたちの体験と記憶の中にあるはずです。

◆祖父との旅は終わらない

 由依さんは言いました。

 「道に迷ったときには、ヒロシマを訪ねてみたいと思っています」。<大好きなおじいちゃん>と、そこで会話をするために。

 お年寄りの言葉は、混迷の時代を生き抜くための知恵が詰まった「宝物」。私たちも「宝探し」の旅を続けます。おじいちゃん、おばあちゃん、お願いします。今夜も話を聞かせてください。

東京新聞 2020年9月21日 06時34分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/56809?rct=editorial