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【島根県・竹島】大韓帝国勅令制定120周年「独島の日」記念メダル発売[10/23] [右大臣・大ちゃん之弼★]
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0001右大臣・大ちゃん之弼 ★ 転載あかん
垢版 |
2020/10/23(金) 09:55:22.09ID:CAP_USER
ゴールデンデューが独島(ドクト、日本名・竹島)の日(10月25日)を記念して「独島の日大韓帝国勅令制定120周年記念メダル」を発売する。26日から30日まで企業・農協・ウリ銀行の全国の支店、ゴールデンデュー・オンラインモール、現代百貨店オンラインモール、豊山禾東洋行(プンサンファドンヤンヘン)で先着順で予約を受け付ける。金立体金メダル〔合計150個、1個当たり638万ウォン(約59万円)〕、金立体銀メダル(計500個、1個当たり198万ウォン)、銀立体銀メダル(計1000個、1個当たり28万6000ウォン)、金銅メダル(計2000個、1個あたり3万3000ウォン)の4種類がある。このうち金銀メダルは底の部分に太極旗と独島が交差して見える「潜像手法」を適用した。

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版 2020.10.23 08:45
https://s.japanese.joins.com/JArticle/271502?servcode=400&;sectcode=400

https://i.imgur.com/Rjk7Mmm.jpg
「独島の日大韓帝国勅令制定120周年記念メダル」
0077<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2020/10/30(金) 15:46:18.11ID:VOULv2nG
454 名前:(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2020/08/03(月) 05:02:43.89 ID:UALBlKDX
石島はやはり独島ではなかった!
 韓国政府の内部文書で判明
https://bi●t.ly/2BQ6IWf
韓国に『外交問題叢書第11号 独島問題概論』という資料があります。1955年に韓国政府の外務部政務局が独島問題の政府関係者向けの内部資料として作成したものです。1955年と言えば、1952年の李ライン設定による竹島強奪、同年のサンフランシスコ講和条約発効、1953年には第一大邦丸事件、1954年の日本の巡視船に対する韓国側からの砲撃事件などを経て、韓国の理不尽な態度のために日韓の対立が激化していたころです。

この中に、何となんと、「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」という一文があります。

韓国側はつねづね「独島は歴史的にも国際法上も韓国の領土である」と主張してきており、その重要な根拠の一つとして、1900年に制定された勅令第41号にいう「石島」こそ現在の独島を指すものだ、と主張して来ました。

しかしながら、韓国政府は、1955年時点で既に勅令41号を検討した上で「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」と判断していたわけですから、勅令第41号は現在の独島/竹島のことを規定したものではないことを確認していたことになります。

  それにも拘わらず韓国政府がこれまで「勅令第41号の石島がすなわち独島である」と主張して来たと言うことは、すなわちこれは大ウソであり、韓国政府は日本と韓国の両国民を騙して来たことが明らかになりました。

455 名前:(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2020/08/03(月) 06:08:50.70 ID:ocoO1pTR
2017/02/23
日本外相「竹島は歴史的にも国際法上も日本の固有の領土」
http:
//mint.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1487798650/348,351,354,925
2018/05/19
【日本府県略図】「竹島外一島」は鬱陵島 韓国側主張崩す地図発見[05/19]
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1526712129/151,188,198

2007/11/28
【竹島】鬱陵島の属島、「小于島」「大于島」が描かれた朝鮮の絵図二枚を確認 「石島は独島」説否定[11/28]
http:
//news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1196238896/

韓国が知らない10の独島の虚偽
第6回
「日本政府は、1905年、竹島を島根県に…再確認しました。」の正当性
https:
//www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/dokutonokyogi/dokutonokyogi10-6.html
 李奎遠が島項と命名したのは、島の頂上に稚竹が生えていることから、臥せている牛の項(うなじ)と見立てたからである。その島項が「勅令第41号」では石島(ソクト)となるのは、鼠項島と表記して[SomokuSomu]と訓読し、それを音読で表記したのであろう。それは反切で鼠項島を読むと、石島となるからだ。欝島郡の行政管轄区域で属島とされた二島は、竹嶼と島項(鼠項島=石島)で、独島(竹島)とは関係がなかったのである。


 その後の経緯は明らかではないが、そのほぼ二ヶ月後、1906年7月13付の『皇城新聞』には、
「欝島郡の配置顛末」と題する記事が掲載された。それは統監府が内部に対し、欝島郡の設置の顛末を
問い合わせる記事で、内部からは統監府に対して、「郡庁は霞台洞にあり、該郡所管の島は竹島・石島で、
東西が六十里、南北が四十里。合わせて二百余里」と、回答がなされたとする内容であった。
それも内部からの回答には、依拠した「勅令第41号」にはない記述があった。欝島郡の管轄範囲を
「東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」とした部分で、伝統的に欝陵島一島の疆域を示す
表記がなされていた。

この内部の回答で、
「該郡所管の島は竹島・石島で、東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」とされた事実は、
沈興澤が「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在る」とし、独島を欝島郡所属とした報告を全面的に
否定するものであった。欝島郡守の沈興澤が、江原道観察使署理春川郡守の李明来に「本郡所属の独島は、
外洋百余里の外に在る」と報告して2ヵ月後、内部は「勅令第41号」を根拠に、欝島郡の管轄範囲を
「合わせて二百余里」としたからだ。沈興澤が「外洋百余里の外に在る」とした独島は、当然、その中には
含まれておらず、欝島郡の属島でもなかったのである。
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