盧溝橋事件(Wikipedia)

■事件の概要

1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)
および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習については日本軍は7月4日夜、中華民国側に通知済みであった。

これに対し中国側は許可を出してはいないが、北京議定書では議定書に基づく駐留軍には演習権が認められており、中国側の許可は不要であった。ただし、第3大隊は北京議定書に示されていない豊台に駐留していた。

…■中華民国による中央集権化と抗日の動き

1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、中華民国の国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった。

1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[19]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[20]、
金融問題によって反�ャホ側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[21]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[22]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[23]。