>>353
だから条件反射で答えてないで中身読めよ
1926年までだわ駐留してたのはw
極東板から遁走した負け犬シナチョンコロw

下記の1917〜1937年ごろの地図を見るとわかるが山海関から北京までが
北京議定書・第9条で列国の駐兵が認められた北寧線(京奉線)であるが、
北京市内の北京−豊台−黄村は一つの場所といっても差し支えない。
https://blog-imgs-44-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/20120203212748eed.jpg

1936年6月から日本軍が駐屯した豊台は、
北京議定書・第9条の例示の12地点の中にはありませんが、
12地点は単なる「例示」でありますし、
自国民を守り、治安を守る事が主要な目的です。

また、それまで北京議定書締約各国が任意に、
単に通告のみで兵力量や駐留地点を情勢に応じて
融通無碍に決定してきたという慣例があったので、
北平の日本人の増加が著しい状況に対応し、日本人の保護のために、
北平〜山海関を結ぶ北寧路線(京奉線)沿線で黄村と同じ北京市内にあり、
1911年から1926年まで英国軍が駐留していた豊台に歩兵隊の一部を
派遣する事には条約上の差し支えは無しとしたものでした。

当初は豊台ではなく通州に置こうとしていたのですが、梅津陸軍次官が、
北清事変最終議定書の趣旨に則れば京津鉄道から離れた通州は駄目だと反対
したので、その代わり北京の西南4キロの豊台に一個大隊を置くこととなった
経緯があり、日本が可能な限り議定書順守に気を遣っていた事が伺えますが、
結果としては通州に置いていれば通州事件は起きなかったかもしれません。

また、南京政府軍勢力は微弱で、
学良系・閻錫山系・馮玉祥系などの軍閥が割拠するなか、
南京政府は、それらの軍閥に官職を与えるという形で、
それぞれの軍閥が自分の縄張りを統治しているという状況だったので、
臨機応変に対処しなければならなかったという事情も考慮されるべきです。