盧溝橋事件(Wikipedia)

…■日本軍

日本軍北支那駐屯軍は、中国側戦力を警戒し天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた[51]。

北平や天津への支那駐屯軍の駐兵は北清事変最終議定書(北京議定書)に基づくもので[注釈 3]、1936年5月には従来の二千名から五千名に増強していた[52]。この増強は長征の期間にあった共産軍の一部が山西省に侵入したことを
日本陸軍が重視したことと日本居留民増加のため保護に当たる兵力の不足が痛感されたことが理由であったが[52]、公表されぬことながら北支問題について関東軍の干渉を封ずることも目的にあった[52]。

しかし、豊台は北清事変最終議定書(北京議定書)における駐留地点としての例示にはなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績から選ばれた[53]が、陸軍自身の調査により「豊台ニハ日本軍ノ法的根拠ナキ」[54]との結論が出されている。

その上で「取敢一部隊ヲ臨時形式ヲ以テ派遣シ時日ノ経過ト共ニ之ヲ永駐化スル」と、臨時措置を口実として法的根拠の無い永続的駐留を既成事実化する方策の下、中華民国の反対を押し切って1936年6月に豊台駐留は行われた。

豊台にはもともと中華民国第二十九軍第三十七師の一部隊が駐屯しており、そこへ日本軍が駐屯し、第一次、第二次の豊台事件が起き、中国軍が撤退する形で収束した[55]。