盧溝橋事件(Wikipedia)


…1936年4月17日、廣田内閣は閣議をもって支那駐屯軍の増強を決定した[59]。北支に派遣される諸隊は、5月9〜10日宇品港から、5月22〜23日新潟港から乗船輸送され、軍は6月上旬編成を完結した[62]。
軍司令官は田代皖一郎中将、そして軍司令部、支那駐屯歩兵第二聯隊、軍直諸隊は天津に位置し、歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第一聯隊を北平および豊台に、その他一部の歩兵部隊を塘沽、?州、山海関、秦皇島などに配置した[62]。

なお、参謀本部は増強された支那駐屯軍の一部を通州に駐屯させ、これによって冀東防衛の態勢を確立させる案であったが梅津美治郎陸軍次官から外国軍隊の北支駐屯を定めた北清事変最終議定書の趣旨に照らして
京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできないという強い反対があったため通州の代わりに北平西南4キロの豊台に駐屯軍の一部(一個大隊)を置くことになった[63]。

豊台は北寧鉄路の沿線であるが北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれたが[53]、陸軍自身の調査でも「豊台ニ法的根拠ナシ」との結論が出されており、
法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化する[64]方針の元に駐兵が行われた。

豊台駐兵は中国外交部の反対にもかかわらず行われた上[65]、中国軍兵営とも近く[66]、盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた[67]。

東京裁判でも、駐兵場所の問題について議論が行われている[67]。