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20世紀初期、アジア諸国を侵略して西太平洋制海権を掌握した帝国主義日本の自信は天を突いた。しかし、その自信も西側世界から認められたいという欲求を越えられなかった。日帝の文献で難なく探すことができる「世界初」という表現はその欲求を力説する。

日帝は英国より1年遅く起工し、3年たった1922年に就役させた満載排水量1万トン級の軽空母ホウショウ(鳳翔)に「世界初の空母」という説明を欠かさなかった。その空母で侵略の野心を抑えられず、23年後に崩壊する運命が近づいているとは知らずに。

基礎固有技術の大部分を欧米から持ってきたのに、一つでも完成品を先に出せば「世界初」と宣伝した。そのタイトルを先行獲得できない時は「アジア初」と表現を変えた。機会を自ら蹴飛ばした1940年のオリンピックがそうだった。

日帝はオリンピック誘致を通した「脱亜入欧」を試みた。その始まりは1929年、訪日したスウェーデン国際オリンピック委員会(IOC)委員ジークフリード・エドストレームと日本学生競技連盟会長、山本忠興の面談だった。
(中略:誘致の経緯詳細)

日帝はオリンピック誘致成果を帝国主義統治の正当性に利用しようとした。しかし、オリンピックの平和精神を追求せず覆いだけかぶせた開催国の地位は一枚の紙より軽かった。「アジア初のオリンピック」と書いた広報物は日帝の侵略戦争で拡張する前線に張り出された。

日帝は1937年、中日戦争を起こして国際社会から非難されるとすぐに翌年、閣僚会議を経てオリンピック開催権を返却した。第2次世界大戦が勃発し、完全に取り消しになった1940年オリンピック。これを今の日本は「幻のオリンピック」と呼ぶ。幻想の中だけに存在するオリンピックという意味だ。

再び東京オリンピックが幻想の中に消える危機にひんしている。コロナ19大流行でオリンピックをすでに一度延期した昨年3月とは気流が完全に異なる。再延期は現実的に不可能で開催と取り消しだけが選択肢に残り、開催国の莫大な損失が予想される無観客競技をめぐってはIOCと日本に明らかな温度差がある。「取り消し」を言えば違約金とより多くの損失を抱え込むことになり、IOCと日本のどちらも強行の立場で退かない。

オリンピックの運命よりさらに心配になるのは国家代表の汗と涙が虚しく蒸発するのではないかという事だ。彼らの一部は3年後、パリオリンピックを約束できない年齢で最後の挑戦を準備したり生業をしばらく中断して選手村に入った。彼らが疾走してきた5年は虚像ではない。オリンピック開催と取り消しのどちらを選んでも気が重いのは同じだ。

キム・チョルオ文化スポーツレジャー部記者
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[出処] -国民日報(韓国語)[窓(ウィンドウ)]幻想の中オリンピック
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