【植民地支配を受けたことのない国】圧倒的な強国の襲来を退けた日本、「神風か、ただの運か」=中国★4 [6/13] [昆虫図鑑★]
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日本はアジアでも数少ない「植民地支配を受けたことのない国」だが、その歴史を紐解けば、何度か危機が存在した。たとえば、鎌倉時代には2度にわたって元(モンゴル)の襲来を受けている。もし元の打ち払いに失敗していたなら、今の日本はなかったかもしれない。中国メディアの快資訊は7日、圧倒的な強国だったモンゴル帝国が、日本を征服できなかったのはなぜかと問いかける記事を掲載した。
蒙古襲来の失敗は、日本では一般的に「神風に助けられた」と言われているが、記事はこれを否定し、「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張した。元軍は、準備を万全にして大軍で攻めたので、2度とも成功しておかしくなかったと記事は伝えている。
1度目の文永の役では、総勢3万2000人の兵を率いて壱岐を難なく攻略し、博多湾へ上陸するところまでは「元のシナリオどおり」だったと主張した。戦争に熟練していて火薬兵器もあり、戦闘力・士気ともに日本より高かった元が破れるはずはなかったが、暴風雨に遭いやむなく撤退したと伝えた。
2度目の弘安の役では、雪辱を晴らすべく元はじっくり戦略を練って臨んだという。記事は、「九州には大型台風が多い」ことを学んだ元は、弘安の役では台風の時期を避けて攻めたと紹介した。しかし、日本に到着するまで思いがけず時間がかかり、やはり暴風雨に襲われて成功しなかったと伝えた。
日本人が暴風雨を「神風」とありがたがったのも無理はないが、記事はやはり「神風などというものは子虚烏有(しきょうゆう)だ」と主張した。「子虚」は事実とは異なること、「烏有」は何も存在しないという意味で、でたらめという意味になる。実際、文永の役では台風が直接の撤退理由ではないとの説もあるが、弘安の役では確かに台風で大損害を被っている。記事は「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張しているが、その気象条件をもたらした「運」まで含めて、日本人は「神風」と呼んでいるのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
http://news.searchina.net/id/1699867?page=1
★1 2021/06/12(土) 11:44:56.76
前スレ
【植民地支配を受けたことのない国】圧倒的な強国の襲来を退けた日本、「神風か、ただの運か」=中国★3 [6/12] [首都圏の虎★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1623502866/ >>69
そういう意味では、日本人が半島民族の様に、国内の権力闘争に外国軍を引き込む愚かな民族じゃなくて、日本とアジアは本当に幸いだった。
もし江戸末期に大政奉還も江戸城無血開城もなく、幕府と薩長が互いに英国軍やロシア軍を巻き込んで国内で焦土作戦や権力抗争を繰り返していたら、今頃日本は荒廃して中国朝鮮の様に歴史的遺産も文化も何も残ってなかっただろう。
朝鮮同様の分断国家になって全アジアがいまだに貧しく遅れた地域で白人の奴隷だった可能性が高い。 マルコさんが黄金(硫黄)の国ジパングを攻め滅ぼせ!
なんてことをクビライに進言してたらしいよねー(笑) じゃぱんのぼくしゅりゅう
ぼくのとめるじしょにふかのうはない
というごうりしゅぎにぼくはほろびのびがく
ちずをよむくのはなのふじ まあ、運が良かっただけと思っていてくれた方が、後々楽だな。 >>99
wikiに第2次元寇の際の動員数が記されている。 マイナスノチカラ
れいしこうぶつちじょうはんのう
どうしょくぶつでんしれんどう 説明
富士の噴火の掲示板の変化
僕の芸術コンニュウからの変化
他の芸術も同じ ホモサピエンスの汚物である漢民族は
さっさと絶滅させられてろ >>98
数ヶ月粘ってれば、異常気象でもない限り、九州には毎年夏になると恒例の台風が来る事くらい、当時の人は知っていたでしょ。
そういう天の利も味方につけて戦うんだよ。
当時の人でも、風向きの変化とかで、台風が日本の南海上を通過するのか、東シナ海を北上して、玄界灘に入ってくるのか、
観望天気予報で、ある程度読める可能性もある。 >>91
白村江戦(古代)と日米戦(近代)
この二つの敗戦は日本のエポック
外国による占領・駐留・改革という結果は事実に沿って素直に受け入れるしかない
それでも日本人はめげずによくやってると思う
(開戦責任と戦没者の問題は別論として) >>16
植民地とは違うが中国内に日・仏・独の租借地があってそこでは裁判権が当該国だった
租界地も外国が好きな事を出来たという意味では国を奪われていたようなもんだな 「IOC」 縦にして見ると「五輪塔」に似てるよねー
塔は「”串”おでん」みたいに串刺しになっているけどねw 750年ほども前のことを今になって何を言ったところで覆らねえわ。
結果として島国の日本は独自の文化を形成したし、その歴史も語り継がれてきた。
他所の国の歴史を検証する暇があったら、支配者が変わる度に過去を斬捨てている
自国の歴史そのものの愚かさを学べと言いたいね。 >>11
まだそんな古い説を信じてるのかい、お爺ちゃんw レベルの低い分析だなぁw
日本の分析もかなり進んで昔の説とはかなり様変わりしてるんだけどね
4-50代のお爺さん達には分からないかもだけどw 逆に人口15億人でかつては紙幣や火薬を発明し世界文明をリードしてたのに
イギリスの植民地になって小日本に戦争で負けてつい最近やっと経済大国に
のし上がった中国は何なの? さてと 日本固有の文物である「三種の神器」を用意するとしよう。
槍、布、杯などにやられてたまるか。 海を渡って侵略支配する作戦はものすごい労力がいる
きちんと抵抗する勢力があればなおさら
現代でも難しいのに900年前にムリムリ >>10
朝鮮は長年シナの属国
一瞬大日本帝国に保護されていた
今でも乞食国家 >>1
佐世保の相神浦(相浦)氏や、松浦党が強かったから。 10万と言っても戦闘員は半分の5万くらいだろう。
半分は船を動かしたり食事の世話をしていたのでは?
台風以前に元軍は陸上に陣地を作れないほど苦戦している。 しかし朝鮮には日本は昔2回も攻め込んで
2回とも平壌の方まで行ってる
抵抗勢力がほとんどいなかったんだろうな >>109
ソースの元史確認したけどどうも「阿剌罕」という日本行省(日本征服のための省)右丞相が率いる予定だった人数っぽいね
阿剌罕は弘安の役直前に死亡していて、実際には阿剌罕は軍を率いてないから
その人数は実際に弘安の役に参戦した人数ではないと思われる
同じ元史で阿剌罕の名前がまだある記述でも別の所では
「日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本」とか書いてたりするから単純に誤字かも >>129は>>107へ
>>114
てか記事だと「、「九州には大型台風が多い」ことを学んだ元は、弘安の役では台風の時期を避けて攻めた」なのに
「2か月経って台風の時期になって上陸もできずとも未練がましく撤退せず台風にあった」という間滑なことになるね… >>114
しかしそこまで読んでいたとしても、天の運に見放されて負けてしまう事もあるんだよな。
「もし、本当に異常気象で台風が来なかったとしたら?」
例えば、諸葛亮の計略にまんまとハマった司馬懿が、火攻めを食らって袋の鼠となり、全員焼け死ぬ事が確実と思われた時、
途端に黒雲が沸き起こり、雷が鳴って大雨が降り出して、火を全て消してしまった。
司馬懿は、九死に一生を得た。
天は諸葛亮を見放した。
「負けに不思議の負けなし。
だが、勝ちに不思議の勝ちあり。」
この有難い野村克也さんの言葉は、
江戸時代の肥前国平戸藩 藩主・松浦静山の剣術書『剣談』の言葉が元ネタ。
彼が元寇時の松浦党の末裔に当たるのも、何とも奇妙な縁を感じます。 >単に気象条件と運が良かったことが勝因だ
それが神風というものだ >>98
神とか神意とかそういうものは単なる出鱈目だという事でしょ 日本が朝鮮半島に攻め込んだときは特に白村江の戦いの時代とか
もしかしたら抵抗勢力がいなかったというよりは
人口が少なかったのかもな
日本は温暖で米が取れるが半島は寒くてコーリャンなんかが主食
人口差で圧倒したのかも >>115
で白村江のあと唐の占領軍なんてきたっけ?
妄想史観もほどほどにしないと危険だよ。 >>134
白村江は日本負けてるよ
あと半島全体じゃなく、半島国家の百済と新羅に日本と唐がついての
日本&百済VS唐&新羅の戦いだった モンゴル軍が日本に攻め込んでも
支配は無理だったろうな日本は半島より豊かで
人口が多く専門の戦闘員もいた >>1
>日本では一般的に「神風に助けられた」と言われているが、
>記事はこれを否定し、「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張した。
いや最初から、たまたま台風で運よく助かったことを「神風が吹いた」と言ってるんだが >>10
日本は強制占領したニダ!心からの謝罪と賠償を要求するニダ! >>114
日本軍が必死の抵抗で元軍本隊の上陸を阻止して、とうとう台風の時期まで陸上拠点を作らせなかったのが最大の勝因だな。
結果、元・高麗連合軍は日本軍の夜間の船上切り込みを恐れ主力軍船を密集させたため、暴風雨で衝突しあって沈み呆気なく壊滅した。 元は準備したといいつつ日本の方の準備は書いてないし
日本に到着するまで思いがけず時間がかかり台風にあったと
来てすぐ台風にあったと誤読するような描き方してるし
(遅れたのは江南軍、東路軍は来て戦って2か月後江南軍と合流するも台風)
なんか書き方がフェアじゃないね >>95
防腐剤もないから数年で腐るし、何もなくても壊れていくし、
そもそも将兵の補給能力にも疑問がある。
近代兵器なくして日本上陸戦は無謀なだけじゃなかな。
猛烈な殲滅戦が展開されるだけだったと思うよ。 >>139
たまたま台風、というか台風が吹いたのは真夏だから台風シーズンのその最中 まあ台風が来なければたまたまだが、
来るのはたまたまじゃないだろうな。 ヨーロッパ戦線に有効だったペストばらまきができなかったから
海が要塞だった >>1
戦国武将と北条氏の有能さは世界一。
カミカゼじゃねえよw武力の差だよ。そもそもモンゴルじゃ
ねえだろ、半島の新羅、百済の乞食半島人だろw
こいつらが日本侵略しようと来襲してきた事実。
歴史を教えられてないシナに真実を言えば、発狂するだけw
正視できない、それがシナチョソ人どもw 日本の武士団が強かったとも神風という日本の神がかり的な力のおかげとも認めたくないから
運が良かっただけということにしたいだけだろ
この記事書いたやつは >>90
要するに負け惜しみなんだよなw
我々は強かった。でも小日本に負けた。何故だだろう?きっと運が良かったからに違いない。絶対そうだ!日本はマグレで勝っただけで弱いんだ。我々は強かったが、運が悪くて負けただけだ!!!
記事を要約するとこんな感じだもんな >>2
(=゚ω゚=) ちょっとだけ野田首相に同情
(=゚ω゚=) やっぱやめた >>139
?
1度目は対馬や九州西部に上陸されるもこれを叩き出し、元軍は撤退中に大風(11月なので台風ではないと思われる)に遭って遭難。
2度目は上陸さえ許さず完勝。
これでなぜ「運良く助かった」になるんだ?
神風云々は戦功が無かった貴族や寺社が「祈祷で風を呼んだから恩賞よこせ」と言ったのが元だぞ。 >>134
いやそもそも、古代日本人(倭人)集団は、朝鮮半島の南部と北部九州という跨った地域を根拠地としていたんでないの?
神武東征も、東への民族移動拡大の歴史だな。
ちなみに、春秋戦国時代の呉越の争いの頃、長江デルタ周辺→韓半島南部・北部九州と移住してきていたのが、大陸系の倭人集団で、原始日本語を話していたとの説がある。
大陸にいた時に、隣地の民族集団の言語と相互接触をしていたので、朝鮮語と日本語には、とかく文法構造とか単語とかに多くの共通点があるとの話。
その後、北方系民族の南下に伴って、朝鮮半島の民族は、玉突きで南に押し出された。古代日本語の話者は、朝鮮半島を突き出されて日本列島に限定されるようになった。
自分達は熊から生まれたとする檀君神話は、北方系民族の神話だと思われる。 そもそもそんなに日本と朝鮮半島の距離って開いてないんだが
ちょっとの大風で侵攻不可能になるってどんだけ小舟だったんだよってなるわな
日本人からしたら想像するのは家屋くらいの結構大きめの船なんだが
現実は手漕ぎボートみたいな小舟だったんだろうな >>137
半島民同士のくだらない小競り合いに隣国の大国唐と日本が担ぎ出されて巻き込まれたんだよ。いい迷惑だ。
古代から巻き込み上手な半島民はトラブルメーカーだった。
まあお陰で負けた日本は唐の進んだ文明に学ぶきっかけになったからよしとするが、周辺国を必ず自分達の権力争いに巻き込んで悲惨な戦争を誘発する半島民族には要注意だ。 まあ陸つながりだったらモンゴルに蹂躙されて今頃吊り目エラ張りの半島みたいな民族になってるはず >>152
これが正解なんだよね。
所が今もなぜか日本を低く評価したい人たちがいて、
使者切り捨ての件を重大視したり、武士の戦闘力を低く評価したりして話をややこしくする。
当時の使者なんて死を覚悟していくものだろうに。 >>55
> 名乗るのは味方に対して手柄上げたのは俺だぞとアピールするため
> 敵に対して名乗る訳ではない
こんなデタラメ誰に聞いたんだwまさか自分で考えたんじゃないだろうなw
名乗るようなのは元々、それなりの地位にある武士で、味方なら当然知ってるような立場の奴なんだよ?
しかも手柄は首級で明らかだしw
手柄のアピールが目的なら首をとった後で名乗っても効果は同じだから先に名乗る意味がないだろうがw
ちょっと考えりゃわかるだろ
名乗るのは一騎打ちを仕掛ける為で
一騎打ちを仕掛けるのは自軍の士気を上げ、敵軍の士気を下げる為
敵も名乗り出れば討ち取って、両軍の士気を変動させる
敵が名乗り出なければ、それだけで両軍の士気が変動する
身分の低い奴や無名の奴が名乗っても黙殺されて当然なんだから何も起こらんわ >>156
その前に神功皇后あたりで朝鮮半島を占領してるかもよ。 植民地化の先兵である宣教師を一農民が理詰めで瞬殺する日本民族w
そらハゲるワwザビエル >>121
麻薬を世界で最初に外科手術に使った日本人と快楽に使った中国人との違いだね
昔の日本人は運勢も日頃の行いで良くなると信じるオカルト気質なところがあり
誰も見てなくてもお天道様が見てると真面目に生きる国民性だったから発展した
日本人から真面目さが無くなったら落ちぶれるのは自然の成り行き >>157
というか最近は使者切り捨ての件は、昔から批判はあったものの妙に変化してて、
前に立ってたスレの記事のように文永の役後だとわかっててその上で批判する人と、
文永の役前から使者切ってたと誤解してありもしないことを批判してる人と、二種類いるんだよね
流石に後者は学者でしてる人はいないとは思うけど
何の影響なのか元寇に関しては他にもネット上で作られた、史料にない話が急速に広まってしまってる >>135
十一月丁巳朔乙丑に(671年11月)、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。(中略)
唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて(中略)合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。(日本書紀天智十年の項)
あなたの根拠史料は?
なければそちらが妄想史観ということに 日本は白江村の戦いの後、中国に占領されたって話なかったっけ 台風の時期は日本人なら誰でも知ってるから奇跡でもなんでもないわな
そんな時期に船で攻めてくる相手が間抜けってだけで
ただその時期に攻めてくるように日本側が仕向けたって可能性はあるかもな
鎌倉幕府は日本史上でも屈指の戦闘国家でしかも滅亡の危機となれば
その程度の盤外戦術くらいは仕込んで置いたやろ >>150
いや、元は異民族王朝だから。
自分達は負けて支配されたけど、日本は撃退出来た。それが悔しいって事だよw >>161
華岡青洲が麻酔として使ったのは阿片じゃなくチョウセンアサガオやトリカブトだから
元々快楽に仕えるような代物じゃない(たまに同種の植物でトリップしようとして悲惨なことになる事件起きてるけど)
阿片のような快楽にも使えるものをどう使ったのかで分かれてるわけじゃないよ 朝鮮兵が1枚岩じゃなかったからだろ
モンゴル人より漢民族に味方した方が得と見たんだろう
それでわざわざ台風を選んで誘導したんだよ >>164
「上陸した」だけで「外国による占領・駐留・改革」まであったというのは流石に無理がないかなあ
元寇の前の趙良弼も高麗に軍を待機させてるし、戦後すぐの使者が殺されないように護衛だったかもしれないし >>55
いや、源平合戦の末期に義経が奇襲や兵士を疲労させたり、輸送を断つ合理的な合戦方法で従来の作法による人気投票的な風流な合戦をぶち壊した。
代表的なのが那須与一の腕前を称賛して舞を舞った翁を射殺させたり、それまではタブーとなっていた船の漕ぎ手を射殺させたことで、従来の士気を挫く戦いと併用しているところに恐ろしさがあり、味方をドン引きさせたことが後々悲劇となる。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 野村監督 対馬で島民が元(ほとんど朝鮮人)から受けた屈辱は忘れちゃダメ 船縁に人質を数珠繋ぎにしてら、ビビるだろっておもったら、そんなのお構いなしに猛攻撃受けたらしいね。 >>170
>>1の記事にもあるけど台風が吹いた弘安の役は
来た時には台風来てないし台風の季節でもないよ
2か月間武士と、高麗軍を含む東路軍が戦って台風の季節になった
わざわざ台風を選んで誘導したんだったら2か月後にくるはずだしそれは間違い
第一、高麗軍を率いる金将軍は文永の役で撤退に反対して進軍を主張したと高麗史の伝に記されるような人物
一兵士がどうしようと決定権を持ってる高麗軍の将軍がそんなこと許さなかっただろうし軍議でそんなこと言いそうにもない >>166
台風の時期くらい向こうも知ってるから、ちゃんと時期を避けてる。
一度目は台風シーズン後。
二度目は三ヶ月前。
上陸するも叩き出されて帰り道に大風食らったのが一度目。
上陸できずに三ヶ月も海上でウロウロしていて台風食らったのが二度目。
当初の戦略通り陸上に橋頭堡を築けていれば風でやられるなんて事は無かった。
それを防いだ鎌倉武士がとにかく強かった。これに尽きる。 >>58
そりゃそうだw
散々、博多を荒らしといて今さら友好とか寝ぼけんな
叩き斬れって感じだろ まぁ白江村の敗戦後占領されたというのはそうした方が考古学上辻褄が合うという想像でしかないけど、古代のどこかで韓国、中国系の人が流入してないとおかしいのは確実。 >>180
移民は古代から普通にちょくちょく出てくるし移民が全くなかったって言ってる人はいないんじゃないかな 古代に国家意識なんかないでしょ
食い物ありそうだからちょと行ってみようの感覚へ >>180
それと白村江はあくまで遠征の失敗であって、それで日本が占領や国政への介入を許すってのはそれはそれで辻褄が合わない
日本の地で戦って負けたわけじゃないからね >>180
考古学的にいえば、白村江の戦いの後に「中国から大和への侵攻ルートに対抗するための城」が建築されているので、それはない >>184
軍が駐留したり日本改革できるような権限があったらそういうのは邪魔するはずだよね
防人もあったし日本は唐が攻めてくる可能性を考えて防衛してたってことになる ま、新羅も阿呆ではないので、
白村江の戦いの後、渤海が朝鮮半島北部を占領して唐との国境線がなくなるまでは
日本に朝貢するなどしてバランスを取っていたという歴史学的な記録もある 662年白村江で敗戦したのは九州倭国でありその後カクムソウが進駐してきた 奈良の天智」は唐と内通
し倭国の領土領民財宝を公地公民と称し略奪を行った 弥生時代に国を奪われているだろ?
今の日本人の85%は大陸からの侵略者の子孫。
オリジナルは薩摩隼人と熊襲とアイヌだけ。
奪われて正解だったな。 >>190
それは「世界全ての国はエチオピアからの侵略者の子孫」といってるよーなもの(w >>190 二重瞼は九州と沖縄 のっぺり顔の吊り目の一重瞼が朝鮮半島人 >>183
>>184
白江村の戦い以降、唐からの使節団は10倍になってるみたいよ。これはもはや使節団ではなく駐留軍の派遣らしい。 >>171
あなたの感想だけだと妄想です
それを支える史料の提示が必要
使者だけの護衛に「二千人が船四十七隻に乗りて」メッセージを届けたら帰国してお終いですか^^;
唐はオメデタイ人たちの集まりみたいですね
GHQ(マッカーサー)もすぐ帰国しちゃいましたか
魏の時代一大率を伊都国に常駐させて倭諸国を検察し震え上がらせていますが(魏志倭人伝) >>193
遣唐使出してたから相互交流がすすんだとは考えられないの? >>193
根拠は?
貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(旧唐書倭国日本伝)とあるように
唐からは日本に「遠いから毎年来なくていーよ」とか言われているが >>195
趙良弼も百余名の従者を連れて高麗に軍を駐屯させて一年も留まってたように、
使者は長期間滞在しての交渉や調査もすることがあるからメッセージ届けて終わりじゃなかったかもしれないし、
少なくとも「占領・駐留・改革」までを読み取るのは上の引用文では足りないよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています