>>1のつづき

イザベラ・バードは朝鮮人の非衛生、無礼について嫌悪感を示すことが多くあるが、基本的にその潜在力を認め、徐々に嫌悪から愛情に視覚が変わっていく。だがしかし、彼女の観察は時々短刀のように冷酷で正確である。「朝鮮の人々には真の意味としての愛国心はないが、強い民族的本能がある」。 近代的な国民主義ではなく、原始種族主義に基づいた排他的性格をいうのだろう。

私はこの点について、現代の韓国人は果たしてどうなのかを考えてみた。韓国人に種族的本能以外に、愛国心というものがあったことがあるのかという疑問である。韓国の現代の歴史教科書は民族意識は過剰される一方、大韓民国という国家の偉大性、固有性に対してはあやふやだ。大韓民国が朝鮮と植民地を克服した完全に新しい体制、真の意味で韓半島で始まった初の国民国家という事実を無視している。そのため愛国心は発見されにくく、民族にも及ばない種族主義が横行する。

「偏狭、慣例、自負心、傲慢、労働を軽蔑する誤った偽善、利己的個人主義、寛大な公共精神と社会的信頼の破壊、2000年の慣習と伝統による精神的・肉体的奴隷根性、偏狭な知識、浅はかな道徳心・・・」。イザベラ・バードは、朝鮮の劣った教育制度が育てる人間型の特徴を大まかに要約した。 去る120年間の奮闘を通じ、韓国人はこの中で多くの欠点を克服した。韓国人はもう労働を軽蔑しておらず、奴隷根性に縛られてはいない。ところが偏狭さはどうだろうか。利益の範囲が家族枠を越えず、利己的個人主義は変わったのか。公共精神と社会的信頼は拡張されたのか。

世の中の変化の速度はますます速くなっている。その渦中でも遅く変わるものがあり、あまり変わらないものもある。私は少し遅れて読んだイザベラ・バードの旅行記を通じ、120年間で何が変わって何が変わらなかったのかを推しはかってみた。そして、あまり変わらなかったことに至り、少し背筋が寒くなった。

(おしまい☆)