炭鉱の実例
 「官斡旋」の時期に14歳で端島(軍艦島)に強制連行され,三菱造船所に配置換えとなり原爆被
爆した徐正雨(ソ・ジョンウ)氏(1928年10月2日生)の証言を取り上げたい。氏は強制連行問
題のみならず,被爆者問題でも世論喚起に尽力され,人権を守る会の恩人ともいえる方であるが,
2001年8月1日,他界された。
長崎と朝鮮人強制連行(髙實康稔)
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*どんなにきつくても「はい,働きに行きます」と言うまで殴られ…
 この海の下が炭坑です。エレベーターで立坑を地中深く降り,下は石炭がどんどん運ばれて
広いものですが,掘さく場となると,うつぶせで掘るしかない狭さで,暑くて,苦しくて,疲
労のあまり眠くなり,ガスもたまりますし,それに一方では落盤の危険もあるしで,このまま
では生きて帰れないと思いました。落盤で月に4,5人は死んでいたでしょう。今のような,
安全を考えた炭坑では全然ないんですよ。死人は端島のそばの中ノ島で焼かれました。今も,
そのときのカマがあるはずです。こんな重労働に,食事は豆カス80%,玄米20%のめしと,
鰯を丸だきにして潰したものがおかずで,私は毎日のように下痢して,激しく衰弱しました。
それでも仕事を休もうものなら,監督が来て,ほら,そこの診療所が当時は管理事務所でした
から,そこへ連れて行って,リンチを受けました。どんなにきつくても「はい,働きに行きま
す。」と言うまで殴られました。「勝手はデキン」と何度聞かされたことでしょう。(中略)軍
艦島なんていっていますが,私に言わせれば,絶対に逃げられない監獄島です。(出典①,第
2集71?72頁)