藤井譲治 天下人の時代
六月初めの渡海を予定していた秀吉にとって、この報(玉浦・合浦・赤珍浦での海戦の結果)は大きな衝撃であり、
朝鮮南部の制海権を確保しないままでの渡海は、あきらめざるを得なかった。日本側の史料では、秋にかけての天候が
秀吉渡海をあきらめさせた理由とするが、本当の理由は制海権確保があやうくなった事態こそ渡海中止の理由であった。

中野等 文禄・慶長の役
この敗報によって、これまでほとんど警戒の必要もなかった朝鮮への航路確保が俄然問題となったのである。
秀吉の船隊が海上で攻撃されるような事態は、勝敗の問題を度外視しても、あってはならない。
秀吉自身はもとより、この派兵それ自体の権威が傷つくことは絶対に避けねばならなかったからである。
秀吉やその周辺が、渡海計画を受け入れる過程で、こうした危惧が影響したことは間違いなかろう。
李舜臣らに率いられた朝鮮水軍の反攻開始は、単に海上補給路が脅かされるといった戦略上の問題にとどまらない、
きわめて重要な画期となったのである。

山内譲 豊臣水軍興亡史
秀吉が自身の朝鮮渡海にこだわっていたことは先にみたとおりであるが、その渡海はついに実現することはなかった。
それはこのころ李舜臣ら朝鮮水軍の活動が再び活発になったからである。

藤田達生 秀吉と海族大名
同年七月になると、閑山島・安骨浦の海戦で李舜臣率いる朝鮮水軍との海戦に敗北して、秀吉の渡海は見送られる。