東京の寺に眠る父、韓国に帰る日は…終戦直後に輸送船沈没 いまだ返還実現しない275人の遺骨
望郷の遺骨 浮島丸と日韓㊤

終戦直後の1945年8月24日、朝鮮半島に帰郷する労働者ら数千人を乗せた輸送船浮島丸が、京都府舞鶴沖で爆発、沈没した。命を落とした朝鮮半島出身者のうち275人の遺骨が、東京都目黒区の祐天寺に残されている。戦後77年を経ても、韓国の遺族が願う遺骨返還は実現していない。(ソウル・木下大資)

浮島丸事件 朝鮮半島から徴用などで動員され、帰還しようとする朝鮮人ら数千人を乗せて青森県大湊港から現在の韓国・釜山へ向かっていた日本海軍の輸送船浮島丸(4730トン)が1945年8月24日、京都府の舞鶴湾内で爆発、沈没した。当時の日本側の発表では朝鮮人524人と乗組員25人が死亡した。

◆父の名が記された箱
 
韓国南西部全州チョンジュに住む全承烈チョンスンヨルさん(80)は2006年に祐天寺を訪れ、父の名が記された箱に入った遺骨と対面した。内袋を開け、硬い骨の感触も確かめた。「日本に連れていかれた父を故郷に埋めてやりたい」との思いがこみあげた。
 
全州で酒造会社を営んでいた父は戦時中に動員され、青森県大湊の海軍施設で働かされた。終戦で帰郷しようと浮島丸に乗り、事件に巻き込まれた。
 
しかし全さんが対面した遺骨は、父のものではない可能性がある。浮島丸沈没後、海中から一部の遺体を引き揚げ、まとめて火葬したためだ。遺骨は誰のものか特定されないまま箱に分けられた。爆発原因についても、米軍が敷設した機雷に接触した説などがあるが、韓国では生存者の証言などから日本側が故意に爆破したとみられている。
 
日本に対する強い不信感を背景に、韓国の遺族は長年、日本政府の再調査や謝罪がなければ、個別の遺骨の返還は受け入れないとの立場だった。しかし時の流れとともに、高齢化した遺族に感情の変化が見える。

◆「謝罪がほしかった」しかし…

全さんは、父の顔を知らない。父は戦時中、1歳くらいだった全さんを抱いた妻に「しっかり育ててくれ」と告げ、日本人警察官に連れていかれた。日本のために働かされ、二度と郷里には戻れなかった。

「日本政府の謝罪がほしかった」。そう語る全さんら遺族は1992年、日本政府の謝罪や損害賠償などを求めて京都地裁に提訴した。一審は日本政府に賠償を命じたが、大阪高裁は原告の要求をすべて退け、最高裁も高裁判決を支持して確定している。
 
高裁判決当時の新聞は、全さんが会見で日本への激しい怒りをぶちまける様子を伝えた。しかし全さんは「今となっては、あの時の怒りの感情を表現することはできない」と話す。
 
浮島丸事件の遺族団体代表の韓永龍ハンヨンヨンさん(78)=慶尚南道キョンサンナムド居昌コチャン=も「遺族たちは高齢になった。親に顔向けできるよう、死ぬ前に遺骨を祖国に迎えたい」との意向を語る。
 
日本側が524人とする朝鮮人死者数は韓国では数千人と考えられており、祐天寺にある遺骨箱に親の名前がない遺族もいる。韓さんには、舞鶴沖の海底に残されているであろう遺体を捜し、DNA鑑定で遺骨の身元を突き止めてほしいという思いは今もある。しかしまずは返還を優先させたいという考えに傾く。

◆日韓関係が冷え込んだ10年
 
日本政府は、国内で収集した朝鮮半島出身の軍人・軍属らの遺骨を祐天寺に委託して保管してきた。2008?10年には日韓政府間の協議の末、祐天寺にあった423人の遺骨が4回にわけて韓国に返還された。戦後77年の今も残るのは、日本と国交のない現在の北朝鮮出身者425人分と、浮島丸関係の遺骨だけになった。
 
日韓関係が冷え込んだこの10年間、返還をめぐる協議は止まっている。遺族らの焦燥感は強い。昨年4月には韓国大統領府や在韓日本大使館に対し、遺骨を安置して追悼できる公園を韓国内に整備した上で、遺骨の返還を実現してほしいと要請した。
 
全さんは「ともに遺骨を迎える場があれば、遺族は親の遺骨のかけらでも入っているという気持ちで訪れるでしょう」と意義を訴える。韓さんも「日韓の仲が悪くても、両政府は遺骨問題に人道的次元で取り組んでほしい」と語る。

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