「朝鮮学校卒業生」の私が見てきた現実

 私は80年代初頭の朝鮮学校卒業生である。

 当時の朝鮮学校といえば、井筒和幸監督の映画「パッチギ」の内容がまったくその通りであることに映画を見た時、驚いた覚えがある。

 映画は京都を舞台に在日朝鮮学校生の生活を描いたものなのだが、最後に日本の不良校生と朝鮮学校生が鴨川を挟んでの大乱闘になる。

 まさかこの場面の話だけは作り話と思っていたが、京都の日本人の先輩に聞いたところ、そういうことはあったらしい。乱闘の規模は別にして、鴨川を挟んで日本の不良校生と朝鮮学校生のぶつかり合いはあったと話すのだ。

 かくいう私も、中学の入学式の帰り先輩に動員されて、何もわからず人生初の喧嘩に参加した。

 当時、私は体が大きく小学低学年から地元警察署で柔道、他で合気道を習っていたこともあり、同級生の中で一人動員されその後、毎日の様に意味のない(不良同士のいがみ合い)喧嘩に高校まで明け暮れたのだ。
朝鮮学校の「中」

 当然、私らの頃には「在日組織(総連、民団)」は全国津々浦々に根付いており、朝鮮学校は不良の世界で天下に近く、全国の朝鮮学校はどの地域に行っても日本の不良中学、高校も一目置く存在であったと記憶している。

 また、この頃の朝鮮学校は全国統一制の縦社会でどの地域でも朝鮮学校出身と言えば社会に出ても先輩、後輩の絆が強かった。

 そんな学校内の生活を知る日本人は少ない。

 私の場合、義祖父が朝鮮総連の幹部で父親が民団の幹部であった。当時は同じ長屋に住み、事業も一緒にしていたので家長は義祖父であった。

 日本の幼稚園に通っていた私は小学校に上がる時、異変に気づいたのだ。幼馴染と違う学校に行くわけだから、不思議に思ったことをいまも覚えている。

 親も家長であった義祖父の言う通り、私を朝鮮学校に送ることを承諾したのだろう。当時の組織勢力としては民団より圧倒底に朝鮮総連が強かったのだから。
「2つ」のよかったこと

 私はめでたく朝鮮学校1年になったのだが、いま思えば朝鮮学校の教育に対して感謝もあり、疑問も生じている。

 感謝という意味では「2つ」ある中で、1つ目はやはり言葉である。韓国に在住して在日として馬鹿にされながらでも暮らしていけるのは、朝鮮学校で母国語を習っていたからである。

 実際、日本の朝鮮学校での母国語教育は、北朝鮮に行っても韓国でも通じないことも少なくない。文章自体、日本の文章を頭で翻訳して話すわけだから、変な言葉、文章になり、わかりづらいとよく言われる。

 それでも全然知らない、分からないよりよほどマシである。

 2つ目は反米、反日、反韓教育によるハングリー精神である。この部分は、学校教育より祖父、親の背中のほうが大きかったかも知れない。

 また、親の苦労、日本にいる理由、差別の理由を学校教育で理解していたのかも知れない。

以下ソースから
12/19(月) 7:32配信 豊 璋(在韓国コンサルタント)
https://news.yahoo.co.jp/articles/0d1c73dc76ea390e210770e19ceb773415ce579c?page=2