19世紀初め、オランダなどと競争しながら東アジア植民地の開拓と商品市場の拡大に熱を上げていた英国の東インド会社は、マラッカ海峡の小さな島が地政学的に非常に重要だということに気づいた。14歳の時から東インド会社の忠実な構成員として働いていたスタンフォード・ラッフルズは、この地に貿易拠点を築くことを計画した。1819年1月末、マレー半島南部のジョホールを治めていたスルタンの長男トゥンク・ロンを脅して島を得た彼は、ここに町を建設した。まさにシンガポールという軍事・貿易都市が誕生した瞬間だった。

 約150年間、英国はこの町をいくつかの区域に分け、多様な移住民を分割統治した。植民統治の便宜のために華人街、インド人街、欧州人街、アラブ人街、マレー人街、ブギス人街などに区域を分け、新しい港に移住してきた人々を人種ごとに配置したのだ。

移住労働者に対する不平等

 植民都市計画のこのような起源は、今日のシンガポールの人口分布や特性にも表れている。2021年のシンガポール統計庁の資料によると、545万人の人口のうち市民権や永住権を持たない移住民は27%に当たる147万人(コロナ禍以前は168万人)に達する。人種分布も華人系74.3%、マレー系13.5%、インド系9.0%などで、多人種のアイデンティティを保っている。彼らはみな19世紀以降に移住してきた人々の子孫だ。

 一方、シンガポールのインド人は19世紀に南インドやスリランカ一帯から半強制的に連れてこられた労働者、軍人、囚人の子孫だと言える。彼らは時にはインド社会の激変に影響を受け、時には独自に自分たちの共同体文化を形成してきた。リトル・インディアはまさにそのようなインド人が密集する中心地だ。

 2013年12月、そのリトル・インディアで大規模なデモが発生した。日曜日の夜にも出勤して一日中建設現場で働いていたインド人労働者のサクティベル・クマラベルさんが、寮に戻る際に乗っていた私設バスの下敷きになって死亡した事故がその発端だった。仲間の労働者が全身つぶされて死んだことを知り、400人あまりの移住労働者が街に飛び出した。彼らはリトル・インディアの真ん中でパトカーを燃やし、警察と投石戦を繰り広げた。当局によって「暴動」と規定されたこのデモは、2時間が過ぎた深夜12時ごろに鎮圧された。

 集会・デモが禁止されているシンガポールにおいて、このデモは人々を驚かせた。当局は厳格な法執行を強調し、約4千人の移住労働者を呼び出して調査した。33人の積極加担者を起訴し、57人の単純加担者を追放した。さらに2015年からは、週末のリトル・インディアでの飲酒を禁止した。事故が起きたのは死亡した労働者が酒に酔っていたからだというのがその理由だった。この問題に取り組む活動家のロイ・ウンエルンさんは「シンガポールの根強い不平等が招いた恐ろしい結果」だとし、「(移住労働者は)シンガポールに大きな貢献をしてきたが、最も劣悪な労働条件、低賃金で働いている」と指摘する。

 事件後、移住労働者の移動の自由はなくなった。シンガポール政府は移住労働者の働くトゥアス港にコンビニエンスストア、居酒屋、映画館のある大規模な寮団地を建設したが、コンテナで作られた鶏小屋のような部屋には2段ベッドがぎっしりと並んでおり、1部屋に最大で20人が生活する。これは、もうリトル・インディアのある都心の方へは来るなという禁止通知も同然だった。トゥアス港で働く40万人の労働者のうち34万人がこの寮で寝食しているという。外国人雇用者寄宿舎法に則り、今年4月から衛生や保安の水準を向上させるといわれているが、そのように住居条件が改善された寮は10%未満に過ぎない。英国による植民統治の手法をより露骨に復活させたわけだ。

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ハンギョレ 登録:2023-01-09 01:54 修正:2023-01-09 07:55
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/45579.html