【日本人専門家】 長江文明からもたらされた稲作が日本の社会や文化を決定した [9/21] [仮面ウニダー★]
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中国新聞社 2023年9月20日(水) 22時30分
ー前略ー
・日中文化の共通性には稲作という土台がある
考古学、文化人類学、農業学の研究では、イネの原始品種はインドあるいは中国雲南省に起源を持ち、
その後はイネの栽培技術が主に長江下流部から日本に伝来したと考えられている。
日本に稲作技術が伝わった時期についてはいくつかの説があるが、弥生時代の紀元前3世紀ごろには
日本の九州地方で稲作が一般的に行われていた。当時の日本は狩猟、採集、漁獲を主な生産手段とした縄文時代から、
農業を主な生産手段にする弥生時代に入る時期だったが、稲作技術の伝来はこの生産方式を転換する触媒となった。
最近の研究では、九州地方の縄文後期の遺跡に灌漑施設の痕跡があることが分かった。
つまり水田耕作は弥生時代より前に始まったことが分かった。
稲作技術が日本に伝わったのは縄文時代後期から弥生時代初期という説が多く受け入れられている。
稲作がどのようにして日本に到着したかについてには定説がない。現在は3種の説がある。
第1の説は「朝鮮半島を経由して北九州に到達した」で、さらに「中国から直接九州に伝わった」、
「海路を通って沖縄に到達し、そこから九州に到達した」という2説がある。
現在までの研究で、朝鮮半島の稲田跡と九州地方の稲田跡が似ていることが明らかになったことから、
第1の説が比較的広く認められている。
稲作の伝来は、日本に農業社会と定住生活という大きな社会変革をもたらした。日本人は集団労働の生活を送るようになり、
親族や村落の概念が現れ、国家などの政治制度が現れた。つまり、人口、産業、社会制度がすべて変化した。
米は儀式や季節の行事にも結び付いた。例えば餅だ。中国の雲南省では餅文化が栄えている。
日本人は入学、成人、結婚などの祝い事や伝統的な祝日に餅を食べる。
中国にも祝日に餅を食べる伝統があるが、祝いの内容は異なる。伝統的な祝日は農業の文化と気候によって决まる。
日中両国は同じ季節感を持っているので、伝統的な祝日の時期にあまり違いはないが、
祝賀行事には違いがあり、食べる物も同じではない。
ー中略ー
・稲作は人々の芸術意識も育んだ
ー中略ー
・日本文化の基礎部分は長江文明に根ざす
一般的には、日本は儒教思想や漢詩を多く受け入れたと認識されている。これらは中国北部の中原地域の文化だ。
しかし稲作を考えれば、日本は中国の長江以南と密接なつながりを持っていることが分かる。
長江文明は中国のもう一つの文化であり、日本人は稲作をベースにした長江文明に親しみと関心を感じる。
日本は中国から儒教思想や中国文学、その他の先進的な精神文化を取り入れたが、
日本の生活や文化の基礎部分は長江文明に根ざしている。稲作を切り口に日中の文化を考えるのも良い方向性だ。
日中の人の往来は3年間にわたり、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えた。昨年は日中国交正常化50周年、
今年は日中平和友好条約45周年を迎えたが、日中関係の先行きは不透明で、両国の学術交流も以前の状態に戻っていない。
世界に目を向けると、自由貿易システムが保護主義の衝撃を受けている。
このような時だからこそ、人類の平和と持続可能な発展のために、知識と文化の交流が重要になる
ー後略ー
全文はソースから
https://www.recordchina.co.jp/b920744-s41-c30-d0198.html >>452
気温の上昇と共に水田が拡がっていくのが遺跡などから確認されていてリンクしているのよ
それ以前の暖かい時期の頃の遺跡が残っていない >>586
頼まれてないコリアンが勝手に「おむすびころりん」を「チュモクパプころりん」に置き換えるだろうけどな >>592
オニギリの起源を主張してからのはなシダ ◆倭人文化にみられる周文化
古代の倭人社会には周王朝の影響が色濃くみられる。
たとえば南朝宋の范曄432年完成させた『後漢書』には
倭人の使節は「大夫」を自称すると記されている。
西晋の陳寿が280年頃に著した『三国志』も同様で、
「古より中国にやってくる倭の使節は、
皆大夫を自称する」と記している。
"大夫"とは何か。
周代の卿・大夫・士という官職制度の称号の一つである。
そもそも「古」なる語は、『三国志』が編まれた魏晋時代においては、
上古の夏・殷・周を指す。
したがって大夫を称する倭人が
何度も周王朝にやって来ていた事を表している。
更に『三国志』を読むと、倭人の習慣に
「すなわち骨を灼きて卜する所を告ぐ。其の辞は令亀法の如く…」
と書かれた箇所がある。
「令亀の法」とは『周礼』春官で述べられる"大卜"のことで、
周代に盛んに行なわれていた呪法だ。
同様に、「搏手」についても書かれている。
これも周代の古法で、神社で打つかしわ手として現代に残っている。
「籩((へん)」「豆(とう)」といったものも挙げられている。
神社の祭礼で用いられる高杯(たかつき)に似た物で、周代特有の祭器だった。 私は韓国人である事に誇りを持っている
米などいらないキムチがあればいい 古代〜中世頃まで中国から文化的影響を日本が強く受けている事は否定しない
ただし室町以降は殆ど受けていない ◆日本に渡ろうとした孔子
対して"韓"を含めた東夷諸国の条では、周の古法への言及はほとんど無い。
このような対比からすると、日本列島だけ
周王朝の文化やシステムで統治がなされていたとみられる。
弥生時代に一大集落があり、稲作が最も早く開始されたのは北九州とみられるが、
九州島の「九州」とは、周代における中国本土を意味し、
太宰府の「太宰」も周代における国の最高執政官の呼称である。
この点についても周王朝の影響がみられる。
おそらく弥生時代のクニグニの中枢には
周の人間がいたのではないだろうか。
また、先に述べた、1世紀に後漢の班固・班昭が著した
『漢書』倭人の条の冒頭にはこのように書かれている。
「故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人…」
孔子は道が行なわれないことを悼み、
渡海して九夷(東方の野蛮な諸国)に住むことを欲した。
特に楽浪から海を越えた先にある倭人の島に移住しようとしていた。
という意味であり、ここから倭人の紹介に入っている。
孔子が住んでいたのは山東半島のつけ根の魯国で、
始皇帝と徐福が出会った山東省の一角でもある。
紀元前6世紀半ばの孔子が日本列島への渡海を希望していたという話は
300年後にこの地から日本に渡った徐福と無関係ではないだろう。
既に孔子の時代に日本列島の事は知られ、
山東半島を起点とする日本列島への
渡海ルートも開拓されていたと思われる。 朝鮮半島経由説は完全に否定されているw
むしろ九州で自生していた稲を戦乱から逃れた中国人が持ち帰った説まであるからな。
つーか、縄文人は海洋民族、縄文土器がどこから出土しているか、本当のことを教えて欲しいね。 >>588
朝鮮半島旗はもち米栽培なんだよ
水田じゃなくて畑でもち米作ってた まぁ、ちょっと日韓軋轢を横に置いて言うけど
日本語と韓国語って文法がほぼ同じ、同じ言語体系と言っていい
この日韓語は中国語ともロシアとも明らかに文法が違うわけで
日韓の言語は中国やロシアとは別の、そして日韓同一のルーツに依ると考えるのが自然だと思うんだ
>>594 おまえちょっとうるさいよ
そのことを前提に置いて
言語だけは日韓共通のルートを辿って構築され
技術や社会や農耕は日韓別ルートですって考えるのはちょっと無理があろう?
たぶん、言語も稲作も、日韓ともに同じルートからもたらされたんじゃねかと ◆紀元前10世紀に始まっていた日本の稲作
稲作によって始まる日本の弥生時代の開始時期は
紀元前3世紀頃とされている。
だが2003年に千葉県佐倉市にある
国立歴史民俗博物館の発表によると、
放射性炭素年代測定法で
弥生式土器付着の炭化物の測定をした結果、
弥生時代のはじまりは約600年早い
紀元前1000年頃に遡る可能性があるという。
放射性炭素年代測定法は年代の狂いが大きく、
過去に遡れば遡るほど不正確になるので
あまり信憑性はないため、
発表当時は研究者の間でも賛否両論があった。
だが現在では多くの研究者が
弥生時代の開始年代を遡って考えるようになっている。 >>1
中国人と朝鮮人は地球の癌
滅ぼすべき時に滅ぼさなかった人類の汚点よ >>495
それは今の話だろ
満洲人は人種的にはモンゴル人と同じ
農業ができる土地で定住して農業やってたのが満洲人で
農業ができない牧草地で馬で移動しながら羊飼ってたのがモンゴル人 ◆弥生時代の始まり
では、紀元前10世紀頃に日本列島の倭人は
どこから稲の種籾を手に入れ、どこから稲作の技術を習得したのか?
箕子朝鮮の勧めで周と交わった結果、
周王朝から入手した可能性が高い。
先に述べた通り中国に稲作を始めたのは倭人であり、
倭人の領域は長江流域から山東半島付近にまで広がっていた。
先に日本列島に移住していた者たちは
そこに住まう倭人たちと交流し、
彼らの一部を技術指導者として日本列島に迎え入れた可能性もある。
ただし紀元前10世紀頃の日本で
幹線水路、井堰、取排水溝、畦畔など
大規模な水田の遺跡が発見されているわけでもないので
稲作の始まりは紀元前10世紀であっても、
やはり本格的な水稲耕作の始まりは3世紀頃と見ていいだろう。 ◆朝鮮半島は倭人の領土だった
朝鮮半島の南部、今でいう韓国は
遅くとも紀元前10世紀には倭人の領土だった。
邪馬台国の時代に帯方群を出た魏の遣いが立ち寄った
朝鮮半島南岸の「狗邪韓国」もまた倭国の領土であり、
これは『魏志倭人伝』の記述からも確認される。
1世紀から中国東北部〜北朝鮮を支配していた高句麗は強く、
404年には帯方地方で
倭国は高句麗の好太王(広開土王)に大敗したものの、
未だに南部に広い領地を持っていた。
478年には中国南北朝の南朝の国・宋に倭国が遣いを送り、
順帝は倭王武を
「使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍」
に除している。
つまり倭国が朝鮮の大部分を武力で支配している事を公認しているのだ。
その後聖徳太子の時代まで倭国は定期的に朝鮮に軍隊を派遣し
朝鮮南部にある自国の領土を守ってきた。
しかしついに完全に撤退し、朝鮮半島の領地を失い、今に至る事となる。 雲南省ってチベットのパンダと同じで
暴力で後から奪ったやつじゃん。
それをチャイナからもたらされたみたいに
これがチャイナの手口ってやつか。 文化大革命で優秀な学者を○しちゃったから、今の中国には独裁者に従順な学者しか残ってないんだろうね >>601
朝鮮人の面倒も見れない朝鮮人が
どうやって日本の世話したんだよ
もし本当に日本人が朝鮮人に世話になって真似していたら
朝鮮のような貴族と奴隷の社会構造になってたはず >>502
縄文人+漢人=弥生人=倭人
その倭人が半島南部から西日本にいた >>588
そりゃゼロじゃないが、日本の統治下で生産量は倍になってる
eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/11007/1/42_p207-307.pdf 何でお前らって頑なに大陸渡来説を否定するんだ
律令制も幕府も大陸文化なんだから稲作くらい大陸経由でも良いだろ別に
そもそも欧米人から見れば中韓日人種なんて見分け付かないのに日本だけは別とかあたまおかしい >>615
逆でしょ、大陸渡来説が正しく半島渡来説を否定しているだけ
日本の米はウリが伝授したニダ!を否定してるだけ 韓国語の文法って、なぜ現在の形なのか説明できる人っているのん? 先史時代に於いて考古学的な人の営みの痕跡が極めて稀
半島を通ってきた?
きっと頭には土塊しか入ってないんだよ 日本の稲作のが朝鮮半島のそれより古いのを
どうしても認められない朝鮮頭の歴史学者はどうにかならないのか ◆佐賀県と徐福
ユダヤ人である始皇帝と徐福の密約、
なぜ彼が不老不死の妙薬を突然欲し始めたのか、
日本列島へ船団を派遣した本当の理由は何か──
については語ると非常に長くなるので省くとして、
徐福船団は1度目の航海では
日本の丹後半島に上陸し、富士山に向かった。
一旦秦国に戻った後の2度目の航海では、
沖縄を経由した徐福船団が上陸したのが九州である。
九州各地に上陸伝説があるが、
最有力地は全域に徐福伝承が及んでいる佐賀県である。
特に伊万里市の波多津町が船団の最初の
上陸地点として有力視されている。
地名からもわかるように秦氏の町である。
徐福は南下して佐賀郡諸富町寺井津を訪れたようだ。
ここには徐福御手洗井戸があり、井戸の水で身を清めた後、
徐福たちは金立山(きんりゅうさん)へ向かったという。 >>608
雲南省の辺りが中華になったのは蒙古から
古くは大理、シーサンパンナという別の国だった、民族的にはタイに近いな
だから雲南であるお茶の起源は中華ではなくタイ 朝鮮半島の南部は倭人の国って明確に魏志倭人伝に記録があるからね
昔はもっと温暖だったから南朝鮮で日本人の祖先が稲作をやっていたわけよ
北朝鮮は山だらけだしそこから北は更に寒冷になるから北ルートでは稲作が伝わりようがない
南朝鮮にから日本人が今の稲作を伝えて国造りをしたが
その後北方からエベンキが来て奪われていった
難民となって日本に来れたのはいい方で残った人たちは例のKしぐさの犠牲になったというのが史実だろう
残された人たちから恨まれたりエベンキから詐欺られたりするわけである ◆金立山と徐福
金立山には山頂に奥宮があり、そこから下って
本宮、中宮、下宮という4つの金立神社があり、
徐福やニニギノ命の父のオシホミミ命や
穀物神の保食神を祀っている。
保食神は伊勢神宮外宮の主祭神・
豊受大神と同一神と言われる。
境内には徐福が不老不死の薬草を授かったという
「甲羅弁財天」がある。
保食神を祀る神社は日本中にあるが
特にこの神社は徐福船団による
日本への二度目の稲作伝来を象徴している。
また金立神社は、日本海側において最も格式が高い、
出雲大社の真の本殿である籠神社と構造的によく似ている。
丹後半島の付け根の籠神社も
境内に「亀」に乗った倭宿禰の像が鎮座し
ニニギノ命の父のホホデミ神や、穀物神の豊受大神を祀る。
徐福の上陸伝説がある点も同じだ。
つまり金立山は九州に作られた
第二の籠神社とも言えるのである。 ◆稲作文化を齎した徐福
徐福は金立山を蓬莱山とみなしたという。
佐賀市の重要文化財に指定されている「金立神社縁起図」には、
金立山にやってきた徐福一行の様子が描かれている。
金立山の麓から東に8km地点に、大規模な弥生時代の
群生集落跡地で有名な『吉野ヶ里遺跡』がある。
徐福は始皇帝から五穀の種を賜って出航したというが、
ちょうど徐福の時代は
九州北部で大々的な稲作が始まった時期と一致している。
さらに稲の種類から分析して、
日本の稲作は中国の江南が起源である事もわかっている。
また、吉野ヶ里遺跡の特徴は環濠集落もさることながら、
何といっても膨大な数の甕棺にある。
九州北部にだけ見られる甕棺文化は、不老不死の神仙思想が
元になっているためだとされている。。
五穀を携えて日本に渡来した徐福が稲作を広め、
弥生文化を大きく発展させたとすれば、
まさに金立山と吉野ヶ里遺跡がその発祥地だったことになる。
その意味で、金立山の"徐福王子"伝説は
日本のみならず中国のアカデミズムからも注目されている。 >>1
まあ、春秋戦国時代の中国からの方が妥当でしょう
特に紀元前3世紀頃だと、戦国時代の末期、秦による中国統一と重なり
山東半島や長江下流の各国の民の一部が船に乗り海へ
そして最後は日本に辿り着いたと考えた方が合理的だね >>618
知らん が、こうまで同じだと
日韓語共通のルーツで、日本列島と朝鮮半島で使われていて
中国語の言語体系と衝突の結果、日韓でのみ残って今に至ると考えるのが自然でしょうね >>628
モンゴル語も同じなんで、アルタイ・ツングース系が祖先と考えるのが自然だが? >>617
その人は大陸渡来をイコールで朝鮮半島渡来だと勘違いしてるんじゃないか?
基本的に考えて書き込みしてるタイプじゃないから理解も無いと思うケドな でも韓国人が稲作を教えてやらなければ日本人は土人のままだったよねw >>602
言語は西遼河文明を起源を同じにしているが、黍農耕なので水田稲作は、朝鮮半島経由ではない。
その根拠は、
2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)の
SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。
朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。
RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し、
日本育種学会の追試で再現が確認された。 >>635
えーっと、なるほどつまり! どういうことだ(*'▽')? >>634
系統を同じくするというだけ
君の先祖がモンゴル人ではないように由来ではない >>632
日帝併合時代に義務教育で国語としてハングルを学校で教えたのはソース残ってるけどコメは推測でしかない
そして朝鮮半島みたいな寒冷な地域ではコメが育たない
ここまでは分かっているが情報アップデート出来んのか ◆九州北部の物部王国
九州にはその他の地域にも広く徐福伝説がある。
記紀によると、宮崎で生まれた神武天皇はある日、東征を開始する。
日向を発ち、大分の宇佐を経て筑紫に至るが、
この際に遠賀川(おんががわ)の河口周辺とみられる場所に岡田宮を造営している。
遠賀川流域で発掘される弥生式土器の特徴から、
このあたりは弥生文化の発祥地ではないかと言われている。
なお、遠賀川の河口周辺には
十市物部、芹田物部、島戸物部、弦田物部、二田物部、
狭竹物部、馬見物部など、物部氏が多数集まっていた。
物部氏ルーツを辿れば徐福船団が連れてきた一族である可能性が高い。
九州に上陸した徐福の末裔が畿内に東遷した証拠のひとつとして
大阪・奈良に大量にみられる物部氏に由来する地名と
遠賀川の河口周辺の物部の地名が、名前や位置ともに一致する点がある。
古代史研究家の太田亮氏は、福岡県久留米市にある
高良(こうら)大社が元々物部氏の祖神を祀っていた事をつきとめ、
九州北部に原物部王国ともいうべき一大勢力地があり、
高良大社がその中心地であったと主張している。
https://i.imgur.com/8Mrd0X7.jpg そら稲は本来あったかい地域の植物なんだから南から北に伝わることはあっても北から南に伝わるってのは考えにくいわな
中国の南の方から九州とかに来てそこから品種改良とかしながら東日本でも育つようになったってのが実際のところなんだろうし
韓国は妙にルーツにこだわるけど今現在の稲作で日本に大きく遅れ取ってる現状考えたら威張れるようなことでもないと思うんだけどな ◆九州各地の徐福伝説
久留米市から12kmほど南下した場所には、
九州説の学者によって邪馬台国の都があった場所ともいわれる
福岡県八女市がある。
その山際に徐福の墓だという童男山古墳がある。
名前の由来となっているのは徐福の引き連れてきた童男童女だ。
調査では6世紀の横穴式墳墓とされ、歴史的に合わないのだが、
地元の郷土史家たちは徐福の墓があったところに
後世、古墳を建造したのではないかと指摘している。
薩摩半島の坊津町や串木野市にも徐福伝説がある。
第8代孝元天皇の時代、島平浦の照島にある秦波止に上陸した徐福は、
冠岳に登ると山頂に祭壇を築き、
天の神を祀る「封禅の儀」を執り行ったという。 >>634
どっちも広義的にはアルタイ語族
・母音調和を行う
・膠着語である
・原則としてSOV型(主語 - 目的語 - 述語)の語順をとる[10]
・語頭にR音が立つことを嫌い、固有語にR音で始まる語をほとんど持たない
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AB%B8%E8%AA%9E
モンゴル人によると日本語とモンゴル語は似てるらしい
www.city.takikawa.hokkaido.jp/230keizai/07kokusaika/01contents_e/files/CIR_tsubuyaki_18.pdf >>640
いやそんな、それじゃ日本が韓国に稲作教えないと韓国に稲作なかったことになっちゃう
そりゃさすがにちょっと不自然よ
韓国が日本に伝えた、もしくは韓国のみが日本に稲作をもたらしたわけではないにせよ
当時の日本列島と朝鮮半島の間での交流もあったろう
どちらがどちらに伝えたというより、
列島・半島にそれぞれ稲作が伝わり交流もあり、
気候や風土(水資源や地勢や土壌)などの影響で、日本でより発達した
という程度なのでは >>642
そもそも半島には陸穂栽培しか稲作の遺跡残ってないのに
どうやって水田を日本に伝授するのやら 百済も新羅もヤマトに王子を人質を出してた
逆の史実はないから
常識的に考えればヤマトが半島南部を実質的に支配してたことになる
ヤマトの中枢も渡来人を重用してるし、半島南部と日本は同族に近かったのではないだろうか
現代の半島国家とは、全く別物だよ >>637
日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。
RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心
なんだけど、
朝鮮半島にはRM1-bが存在しないの。
だから、朝鮮半島経由ではなく、
RM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続いている中国から
直接伝わったと考えないと無理なわけ。 >>647
へー、モンゴル語って聞いたことないから知らんかったわ
文法が近いってのは親近感沸くな
日本語は孤独だとずっと思ってたけど、韓国語は発音がちょと違うくらいかもしれんと気付き
今、モンゴル語が祖先かもと知って感動 >>650
日式古墳が発掘されて、そっと埋め直されたそうな >>652
トルコ人の一部は今でもトルコの地域から東に東に渡っていった最果ての民族の末裔が日本人(アルタイ語族説が根拠)って信じてるぞ >>648
朝鮮半島には、遼東半島から稲作が伝わったということ。 >>651
ぢゃあ韓国の稲作はどこから来たんだよ! 変だろうが! それじゃ日本から伝わったことになっちゃうだろ! 温かいうちは朝鮮半島で日本人が稲作をしていたが
寒冷化していって稲が作れなくなると北からのエベンキに押されていった程度だろう 日本語しゃべる人間なら
文法が近い韓国語とモンゴル語を覚えるのは簡単だと
大坂外語大学モンゴル語学科卒の司馬遼太郎が書いていた >>657
日本から伝わったか中国から伝わったかでしょ
水車も作れないレベルで稲作は難しいし
もともと稲は南の植物だし はい、どうぞ
これが記事で言うてる日本の専門家やね
歴史とはあんま関係ないお仕事されとる専門家みたいやけど、他に聞く人おらへんかったんかねえ
↓
>>中国メディアの中国新聞社はこのほど、北京外国語大学日本語学院、北京日本学研究センター准教授の馬場公彦氏に、日本への稲の伝播や稲作が文化に及ぼした影響などについて話を聞いた。
馬場公彦
長野県伊那市出身。
長野県伊那北高等学校、北海道大学文学部卒業、北海道大学大学院東洋哲学研究科修了。
35年間岩波書店の編集者を務め、2013年岩波現代全書創刊時の編集長。
2010年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程満期修了、「戦後日本論壇における中国論の変遷1945-1972 総合雑誌関連記事の歴年推移をたどって」で学術博士。
1983-1988年株式会社東方書店、1989-2019年株式会社岩波書店、2019年から北京大学外国語学院外教(外国人教師)として日本語を教える。
2015年から中国伝媒大学(北京)新聞伝播学部・伝播研究院国際伝播研究センター名誉教授。 チョンなんか水車も作れないのにな
田んぼより低い川から水組み上げるのに
足踏み式の水車必要なのに
日本の浮世絵には描かれている >>657
大体おまエラの主食は長いこと米ちゃうやろ。 >>666
っていうか今の北朝鮮の民衆の主食がトウモロコシ >>655
日本語はアルタイ語族には入らなかったのでは
孤立言語扱いだった >>44
その当時朝鮮半島に居たのは主に大陸人
倭人も居たな
古代中国人が朝鮮半島に文化をもたらした 長江下流域→山東半島→朝鮮半島→九州
長江下流域→九州
長江下流域→沖縄→九州
全部から来てるだろ >>660
>司馬遼太郎が書いていた
はいフェイク >>671
黒潮文化圏は縄文文化圏だからな
朝鮮半島南部は縄文人の土地だった >>664
よしそこだ
そこから列島と半島に稲作が伝来し、日本列島で進化した、OK >>665
根本的に木を曲げる技術がなかったんだよな
だから車輪もないし木の樽もなく重い土窯を頭に乗せて物を運んでいた
韓国人学者はアホな民族主義を捨ててなぜ木を曲げる技術が失われたのかそもそもなかったのか研究しろよ >>669
ぇ、やっぱ孤立してんの?
仲間は韓国語だけなの? >>652
板橋義三、Beckwith、伊藤英人らの研究によって
日本語は孤立言語とは、みなされなくなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/半島日本語
2021年
ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所(MPI EVA)で行われた研究により、トランスユーラシア語族の起源が、およそ9181年前に現在の西遼河のキビ農耕地帯にあったことが示されました。
2023年
ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所(MPI EVA)で行われた研究により、インド・ヨーロッパ語族の起源が、およそ8120年前に現在のトルコ東部の農耕地帯にあったことが示されました。 日本に伝えるためじゃなく、旅人が自分たちの食料として持ち込んだんだろ >>673
>>651にあるように朝鮮半島からは来てない >>679
でも紙は作ってたよ
韓紙という古来からの技術が継承され世界の博物館で活用されて賞賛を浴びている >>655
なんだそれ。モンゴル高原あたりにいたトルコ人が、西に移動して今の場所まで行ったんだろうが >>684
紙があったのに、有名な歴史書は残さなかったの? 木の話してんのに、紙の話持ち出す。葉から紙作るの知らないんだろうね。
今と同じように木から紙ができてると思ってる。朝鮮人だから仕方ない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています