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 佐賀県立名護屋城博物館(唐津市鎮西町)で、開館30年を記念した特別展「新時代へのかけはし」が開かれている。
名護屋城を拠点とした豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵と講和交渉、国交回復までの歩みを当時の書状や国書などからたどる。
東アジア各国の関係は今も難しいが、国と国との間で板挟みとなった当時の大名らの知恵と苦心の跡がうかがえる。

【長浜城歴史博物館の多彩な展示】
https://www.mainichi.jp/graphs/20230705/mpj/00m/040/083000f/20230705mpj00m040074000p?inb=ys

 23日の開場式で、山口祥義知事は「日韓関係を含め平和の博物館として、皆さんの思いにしっかり寄り添う博物館になっていきたい」
とあいさつ。在福岡韓国総領事館の李俊○(○=日に午)(イ・ジュン・オ)領事は
「九州地域が両国間の真の交流の先導的役割を担っていただきたい」とする朴建燦(パクコンチャン)総領事のメッセージを紹介した。

 秀吉は1590年に国内を統一すると、明を服属させること考え、朝鮮に協力を求めた。
しかし、明を宗主国とする朝鮮に拒絶され、1度目の文禄の役(92〜93年)を起こす。

 一気に首都・漢城(現ソウル)を落とし平壌も攻略。しかし、明の本格参戦で戦況は手詰まり状態に陥った。

 肥後の南半分を治めた戦国武将で先鋒(せんぽう)として朝鮮に渡った小西行長らは、明側と水面下で交渉を進め、
明の使節が日本へ派遣された。講和交渉のためだが、秀吉は降伏の使節だと受け取った。

 秀吉の五奉行の一人、前田玄以(39〜1602年)の書状には、
秀吉が1593年5月に名護屋城の黄金の茶室で使節を歓待した事が書いてある。

 さらに、小西行長らの尽力で秀吉は96年5月、大阪城で明の使節と対面。
明の皇帝が秀吉に宛てた「明王贈豊太閤冊封文(みんおうぞうほうたいこうさくほうぶん)」(国の重要文化財)には
「特封爾為 日本国王」(特に爾(なんじ)を封じて日本国王と為す)とある。

 だが、講和条件に隔たりが大きく、秀吉は再出兵を決意。慶長の役(97〜98年)が始まったが、秀吉の死で軍勢は撤収した。

 その後、江戸幕府は対馬宗家に朝鮮との国交回復交渉を任せた。朝鮮は先に日本が国書を送れと要求。
しかし、幕府側も体面上、先には出せない。そこで、宗家は国書を偽造し送付。これを受け、朝鮮は使節を派遣した。

 しかし、朝鮮の使節が携えた国書は幕府側への返書の形式をとっていた。つじつまを合わせるために宗家は再度偽造。
国の重要文化財「朝鮮国書」の「朝鮮国王李昖(イヨン)書契」には返書を示す「奉復」ではなく「奉書」の文字が入っている。
また、贈答品目録の「別幅」に記された品の数量が増やされるなどしている。朝鮮国王印の偽造印なども展示している。

 博物館学芸員の都留慎司さんは「戦を終わらせ、国交回復に取り組んだ人々の思いを感じてもらえれば」と話す。
11月5日まで。入場無料。博物館は1993年に開館し、日本と朝鮮半島の交流史や特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の
調査研究をしている。【西脇真一】

9/27(水) 18:38配信
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