11/1(水) 7:19配信
ハンギョレ新聞

 日本の老学者は壇の向きを変えた。そして「東学農民軍犠牲者を追悼する謝罪の碑」(謝罪碑)の碑文を読み上げていった。謝罪碑には「羅州(ナジュ)で犠牲になった東学農民軍を記憶に留めるため、日本市民が先に謝罪の気持ちを込めた寄付金を自発的に集めた。韓国市民と羅州市の協力で碑を建てることになった」と書かれていた。東学農民軍の虐殺を謝罪する内容が書かれた謝罪碑が建てられたのは、羅州虐殺が起きてから128年後のことだ。

 羅州謝罪碑建立推進委員会日本側共同代表の井上勝生北海道大学名誉教授(78)は10月30日、全羅南道の羅州歴史公園で開かれた謝罪碑除幕式で、「東学農民軍犠牲者と韓国のすべての方々に日本人として、出席している日本人踏査団一行と共に、心から追悼し謝罪する」と語った。韓日両国の市民が義援金3千万ウォン(約335万円)余りを集め、羅州市は敷地を提供した。謝罪碑は、日本による植民地時代、朝鮮の女学生に対する日本人学生の嫌がらせに抗議したことでのちの羅州学生独立運動のきっかけとなった旧羅州駅舎から100メートルほど離れたところに建てられている。

 井上教授はこの日、除幕式の挨拶で、日本軍討伐大隊のソウルへの出軍、各地の討伐戦闘、東学農民軍の強力な戦闘、日本軍作戦の長期化と討伐地域の拡大、日本軍の羅州進入、長興(チャンフン)戦闘など、東学農民軍の抗戦と羅州での長期駐留、殲滅作戦の激化、東学農民軍の大量処刑という歴史を簡潔かつ正確に説明した。

 そのうえで「碑の名称が謝罪碑に変わったので、謝罪を前提に歴史的事実を認めなければならないと考えた」とし、「全羅南道における日本軍の討伐作戦はあまり知られていないが、後備歩兵による討伐作戦が行われた90日のうち、35日間にわたり羅州に駐屯していた」と語った。

 井上教授は、日本軍が東学農民革命当時、朝鮮に渡って農民軍を虐殺したという事実を明らかにした学者だ。1995年、北海道大学文学部で、人類学の教室の標本倉庫の本棚の上に置かれていた頭骨を発見した。頭骨の中のメモには「韓国東学党首魁」と書かれており、「1894年、朝鮮南西部の珍島で蜂起した東学農民軍の指導者の遺骨であり、1906年に採集した」という内容が添えられていた。井上教授は、北海道大学で研究中だった円光大学のパク・メンス名誉教授とともに、日本防衛研究所に所蔵された文書を調べ、東学農民軍討伐部隊の日本軍後備歩兵第19大隊長の南小四郎の名前を見つけた。教授は「電話をかけるたびに、高齢であることを理由に、南(大隊長)の子孫に自宅訪問を断られたが、定年を迎える数日前にようやく訪問しても良いと言われた」と当時を振り返った。

 南大隊長が書いた「東学党征討経歴書」は1895年に作成されたもので、日本軍の命令発令、部隊の移動、司令部からの電報などの内容が簡明に綴られている。井上教授は、「『東学党征討経歴書』を初めて見た時、感動した。子孫が南と書かれた軍用木箱を持ってきた時のことは、今でも鮮明に覚えている。歴史研究者としての役割を果たしたと思えるほどだった」と語った。

30日の除幕式で謝罪碑の碑文を読み上げ 
日本軍の農民軍虐殺を簡明に説明 
「日本軍の大量処刑の事実を認めるべき」 
 
1895年の討伐軍の記録を探して虐殺を明らかに 
「全南地域の戦闘詳報だけが見つかっていない 
今後、全南戦闘について検証が必要」

以下略

https://news.yahoo.co.jp/articles/835779f58be21839ffa5a85bb8da0601338fd613