0001仮面ウニダー ★
2023/11/29(水) 14:26:09.18ID:UB2hezjbー中略ー
日本留学は、日清戦争翌年の1896年、清国政府が13人の官費留学生を試験的に日本へ派遣したことが発端となる。
1901年、日本政府は清国の要請を受けて留学生受け入れの文部省令を出し、それから継続的な日本留学への道が開かれた。
留学ブームはなぜ起こったのか。
「1905年に清国政府が『科挙』制度を廃止し、古い教育スタイルの任官登用制度を止めました。
そこで学生たちは出世のための新たな資格として、『洋科挙』つまり海外留学を目指すようになったのです。
当初は欧米への留学もありましたが、ちょうどそのころ、明治維新後の日本の近代化がアジアでいち早く進んだことで、日本を経由して、
欧米式の近代思想や制度を学ぼうとした。
ことに1905年に日本が日露戦争に勝利したことで、『強い日本』の秘訣(ひけつ)を学ぼうという機運が高まりました。
日本なら『安・近・短』、旅費が安くて距離が近い、短期留学も可能であるという、この3つの条件が重なって日本留学ブームが起こったのです」
1905年には8000人、翌年には1万人前後まで急増する。
このうちの80%が近代都市・東京の神田、早稲田、本郷周辺で生活していたという。どういった人々が日本へ来ていたのか。
・嘉納治五郎が作った日本語学校
「彼らは中国国内で中学や高校まで進んでいた優秀な学生たちで、清国政府や各省の奨学金をもらって日本に来ました。
ただ、日本に来たのは留学生ばかりではありません。1911年の辛亥革命によって清朝が崩壊し、翌12年に中華民国が誕生しますが、
その動乱の最中にさまざまな人たち――革命派の孫文や、清朝政府の中で改革派といわれた康有為、梁啓超など
――が日本に来ました。当時は日本を舞台にして、いろいろな目的を持つ中国人が混ざり合い、活発に活動を行っていたのです」
ー中略ー
・周恩来が好きだった大きな肉団子
ー中略ー
「そのうち奨学金が尽きて友人宅を転々とします。そして18年、(ロシア革命への干渉である)日本のシベリア出兵に反対する留学生の
総帰国で、周恩来も帰国する。彼の憧れは京都大学で、入学願書を出しましたが、後に取り下げています。
その入学願書が今でも京都大学に残っています。しかし帰国直前、京都を訪れて嵐山を散策しつつ、惜別の詩『雨中嵐山』を作りました。
よほど日本を離れ難かったのでしょう。今日でも、その詩が嵐山の亀山公園の記念碑に刻まれています」
ー中略ー
・日本陸軍の軍事を学んだ蒋介石
「孫文は『革命の父』、『国父』とも呼ばれ、辛亥革命の一番のスターだったわけですが、その影に隠れた実力者がいました。
『中国の西郷隆盛』と言われた軍人の黄興(こうこう)がその一人ですし、宋教仁(そうきょうじん)もそうです。宋教仁は法律に興味があり、
早稲田大学の予科で学びますが、読書家で勉強熱心。法律のエキスパートになりました」
ー中略ー
・中国共産党を立ち上げた日本留学組
1921年、中国共産党が創設される。立ち上げたメンバー13人のうち4人が日本留学組だった。
東京大学土木工学科卒業の李漢俊(りかんしゅん)、東京第一高等学校在学中の李達(りたつ)、
法政大学卒業の董必武(とうひつぶ)、京都大学へ進学が決まっていた周沸海(しゅうふつかい)である。
「当時は社会主義がどういうものか分からず、留学生たちは学術研究から始めるわけですが、それを熱心にやったのが李漢俊でした。
彼は中国の代表的な社会主義者として日本でも有名になり、中国共産党の第1回全国代表会議は上海にあった彼の邸宅で行われ、
いまでは記念館になっています。彼らは当時世界で流行していた社会主義思想を日本で吸収して帰ったのですから、
いわば、中国共産党を作ったのは日本で学んだ『知』であったと言えるでしょう」
ー後略ー
全文はソースから
nipponn.com 11/28(火) 16:01配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/da2e3406ddf95ccf00cb0b00ff4d0d0d6234d154