以下はかの村の足跡を追ううち、某所の追田(ついた)という集落にある家の土蔵から
奇跡的に見つかった文献の一部を訳したものである。

瀬河(せが)の地を治める領主の酒井之上臼氏(さかいのかみうすし)は
様々な地を飛び回り妖怪退治に明け暮れる修験者・壱衣(いちい)をたいそう贔屓にしており、
自らの領地に立ち寄った際に「ぜひに屋敷へ」と招き入れてもてなし
江地飛(えじひ)と呼ばれる江戸の地を駆ける速さを競う大会への参加をすすめたという。
壱衣はこれを丁重に断り、またあてのない行脚へと旅立ったものの、
江地飛への参加をすすめられたきっかけが『韋駄天揃いの村人を初九里で抜き去ったこと』と
かの村人たちの耳に入ったものだから一大事。
「我らを差し置いて外の者を評価するとは何事だ」彼らは烈火の如く怒り、
酒井之上に愚情文(ぐじょうぶん)と呼ばれる壱衣への不服や悪評をあることないこと書き連ねた文を送りつけた。
壱衣の俊足や功績は村以外には知られていたことのため、これらの文は誰も取り合うことはなかったが
それもさらに村人たちの嫉妬心に火を点けた。
村人たちはさらに愚情文を壱衣の知人や周囲の村々に無差別に撒き散らし、追田(※ついた・当時は瀬河付近の集落)を大いに騒がせた。
これらの振る舞いは酒井之上の怒りを買うこととなり、ハゲしく怒った酒井之上は村をあげての嫌がらせを
「腹より酸い物がわきあがるのを免れぬ、心底吐き気をもよおす嫌がらせ」――すなわち腹酸免吐(はらすめんと)である――
と評したとされる。
元々周囲の村々から孤立していたような村であったが、この一件で地図に赤判(あかばん)を押されてしまった。
(※赤判は年貢を納めない村や重罪を犯した村に付けられる印で、非常に不名誉なこととされる)

彼らはこれらを恥じて元いた村や名を捨て、新たに山を拓き移り住んだともされているようだが
それらしき明確な足跡は未だに見つかっていない。