かつて日本に険しく霧深い谷が数多くあったころの話である。
ある地は「魔すらゆく道を断たれるほどの険しい谷」という意味から、魔断谷(まだや)と呼ばれ、
俗世を離れ職を捨て、悟りを開かんとする修験者たちの集う聖なる場であった。
彼らは霧深きこの谷より外に出ることなく、その地で生涯を修行に費やすため、俗に「居霧僧」(いきりそう)と呼ばれる。

居霧僧たちがここで行う修行のひとつに、魔断谷一帯を含むいくつもの厳しく険しい山嶺を周る、
「遠途嶺周」(えんどれいしゅう)と呼ばれる苦行があった。
この苦行を達成したものは悟りを開き、本来の僧名とは別に老名(ろうな)と呼ばれる特別な名を名乗ることを許された。
数多の居霧僧が老名を目指し挑んだものの、その多くは険しい道半ばで倒れ、二度と帰らぬものもいた。

ある時、老名を得た一人が「吾(われ)、より深く、真実に近い悟りを得ん」と、苦行を何周も行うことを決めた。
一周ですら息も絶え絶えな者が多い中、もはや正気すら疑うこの挑戦に、多くの僧が「手」を合わせ彼の無事を祈る。
彼らの祈りを受け、この僧は霧の中へと消えていった。
はたして季節が三周するころ、彼は見事に苦行を成し遂げ、あらゆる居霧僧たちに尊敬の目をもって迎えられた。
彼は「多くの山谷を越え、吾という人は成った」との言葉を残し、より深く真実の悟りの境地へと達したことを実感したという。
これぞ「越多吾成」(えたあなる)の境地である。

「越多吾成」――新たな境地へと辿り着かんと居霧僧たちは苦行に挑むが、その後何年も、その境地へと達したものは居なかった。
しかし、このころになるとそもそもの「遠途嶺周」のあり方が変わってきたのである。
谷で暮らすうち、居霧僧たちの体も供給の薄い空気に慣れ強くなっていたことはもちろん、
多くの居霧僧たちが挑み、歩んだ足跡が険しい山谷の道しるべとなっていた。
達成困難な苦行であることには変わりなかったが、出立の際には皆で手を合わせ祈るのが通例となり、
もはや「遠途嶺周」は選びぬかれた者たちですら到底困難なものではなく、
より高みを目指す者が先達の作った道を追いかける修行のひとつとなっていた。

それでも居霧僧たちは生まれる新たな老名の僧を温かく迎え入れ、
より高みを目指さんと互いに切磋琢磨の日々を送っていたが、これをよしとしないものが現れた。
彼は「越多吾成」を成し遂げ、本来なら誰からも称えられて然るべきであったが、
先達を軽んじ、「自分こそが真の『越多吾成』を成し遂げた者である」と言ってはばからず、
そのため彼は、ある時は僧たちの会話の中に割り込み己を持ち上げ、
ある時は有為記(ういき)と呼ばれる居霧僧たちの教典に図々しくも自ら文を書き連ねた。
あまりに傲岸不遜、あらゆる話や物に自らの行がいかに偉大であったかを差し込むので、
彼は陰で「物差し」と呼ばれ蔑まれた。

あまりに目に余るもので、物差しは老名の僧たちの前で問答をかわすこととなった。
「私は『越多吾成』の境地に至る前に軟弱な祈りも受けず、ただ一人で苦難の道へ乗り出し、これを成し遂げた。
 称えられこそすれ、かような場に引き出され誹りを受けるいわれなどどこにあろうか。
 ましてお主ら、『越多吾成』にも至らぬただの老名ではないか」
ふんぞり返る物差しに、老名の僧は毅然として問うた。
「お主の成し得たものは大きい。しかしお主はその過程で得た経験を宝とし我が物とするのではなく、
 結果のみを振りかざし、周りに称えるよう触れ回っておる。果たしてそれは仏門に下ったものとして
 まことに正しき在り方と言えるのか」
物差しは押し黙り、何も答えられず、居霧僧たちから哀れまれながらすごすごと魔断谷の地を去るしかなかった。

大事を成し遂げたものであっても決して驕らず、謙虚さを身に着けねば周りから不興を買い、
やがて居場所がなくなってしまうという教えである。