>>307
−LZ ◆H6mBY5rVQU 2016/09/28 07:35:30
>>103

771:G−LZ◆H6mBY5rVQU:2016/09/26(月)11:11:53 ID:xiP
>>767
「主題的器楽形式の完成者としてのハイドンにとっては、形式の必然の規約が主題の明確性を要求したのであるが、モーツァルトにあっては事情は寧ろ逆になっている。
捕らえたばかりの小鳥の、野性のままの言い様もなく不安定な美しい命を、籠の中でどういう具合に見事に生かすか、というところに、彼の全努力は集中されているように見える。
生まれた許りの不安定な主題は、不安に堪え切れず動こうとする、まるで己を明らかにしたいと希う心の動きに似ている。
だが、出来ない。それは本能的に転調する。若し、主題が明確になったら死んで了う。或る特定の観念なり感情なりと馴れ合って了うから。
これが、モーツァルトが守り通した作曲上の信条であるらしい」

「小林秀雄のモオツァルト」の中でも、私が特に惹かれる箇所であるが、「若し、主題が明確になったら死んで了う。或る特定の観念なり感情なりと馴れ合って了うから。
これが、モーツァルトが守り通した作曲上の信条であるらしい」の文章に接した時、私の考えを一言で言い当てられた驚きを今でも鮮明に憶えている。もう40年も前のことである。

「音を語るのは音以外に無い」、このボードレールの述懐はモーツァルトに於いてその頂点に達する。言葉はついて行けぬ。観念なり感情なりは言葉と親しいからである。
モーツァルトが何故この様な音楽を書けたかと言えば、彼の鋭敏な耳が其れを求めた、そう言う他はない。同じ道を行く限り、「精神で音を聴いている」ベートーヴェンは敵わぬ、彼はそう覚っている。
主題と特定の観念なり感情なりとの融合、ベートーヴェン ピアノソナタ悲愴2楽章/月光1楽章を弾けば、これはもうモーツァルトとは異質な音楽であると誰でも感じるはずだ。
どんなに激しい曲であろうと、ベートーヴェンの音楽は人の心に寄り添う優しさがある。
そして遂には、彼の音楽は後期弦楽四重奏曲に行き着く。鋭敏な耳が行き着いた音楽が「魔笛」「クラリネット協奏曲2楽章」であった様に、精神で音を聴いている耳が行き着いた、其れは音楽だと言ってよい。