こうして、ローマの伝統の破壊者ではないことを印象づけたカエサルは、
しかしすぐつづけて、誰一人想像せず、誰一人待ってもいなかったことを、執政官通達の形で実現したのである。
それは「アクタ・ディウルナ」とか「アクタ・セナートゥス」とか呼ばれ、直訳すれば「日報」ないし「元老院議事報」となる。
元老院で行われる議事や討議や決議のすべてを、会議の翌日に、フォロ・ロマーノの一画の壁面に張り出すのだ。
口述筆記が多用されたローマ社会では、速記の技術も普及していたので、やる気になりさえすれば実現は容易だった。
後世の学者たちは、新聞のはじまりであった、と言っている。
だが、今日的に解釈すれば、CNN的テレビが元老院会議場にもちこまれた、
と考えた方がより適切かと思う。
それまでの元老院会議は、言ってみれば会員クラブのようなもので、
そこでなされる討議も採決も、閉じられた扉の向うで行われ一般市民はその内容を、
扉が開かれて出てくる議員たちの発言か、市民集会に提出されたときにしか知ることはできなかった。
それをカエサルは、公開にしてしまったのである。有権者は情報を与えられる権利をもつという、
誰も反対ができない理由による執政官通達では、元老院も黙るしかなかった。

「アクタ・ディウルナ」の制度は元老院にとっても打撃だったが、とくにキケロには打撃だった。
キケロは物書きの習いで、推敲を常とするのである。発言も議場外でくり返すときは推敲するし、
友人アッティクスの経営する‘出版社’から筆写本で出す弁論集などは相当に手を入れてから刊行する。キケロに弁護し
てもらったのに敗訴に終わり、マルセーユに自主亡命した人物が、自分を弁護した弁論集を読んで言ったという話は有名だ。
その人は、キケロがこれに書いているように弁護していたならば、オレもこんなところで
魚ばかり食っていることはなかったのだ、と慨嘆したのだった。

塩野七生 新潮社 ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語IV
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ではこの後 5、上級編  を貼ってから議論