デカルトとハイデガーでいえば、「我思う、故に我有り」は転倒されるべき
で、「我有り、故に我思う」である。で、デカルトのいう〈我〉とは無世界
的に、他の事物と同じように有る。無世界的であるというところでこの〈我〉
は有の忘却の一種であり、とされていますね。『有と時』の第43節 現有と
世界性と実在性 b)オントローギッシュな問題としての実在性 に書いて
ます。デカルトとハイデガーの思考はかなり異なり、デカルトの自己論を
破壊することが有論的には必要だとみなしていたんじゃないか。
 ここでデカルトを無世界的と規定していることで、近代世界や学における有
の忘却性に、焦点を定めようとした。あと、世界は有るものを超越する、とも
云われる。だからこそ一般化は不可能なんだ、ということが含まれている。
そういうところでたとえば異常者や怪物について、思索の体系から排除して
なかったと思います。