>>255
>>256
 あえて同一人物かを問うことはしませんが

同一ではないです。私としては池田さんの思考の場所というのがただ納得
しがたい。それだけなんで。めんどくさかったらスルーしてください。

 〈有るのか、ないのか、それはわからぬ〉がよく出てくることについて。
友人がが池田さんの本の角で私の頭を叩いた。痛い。「止めろよ」と云った
が、友人は再度池田さんの本で私を叩いた。「止めろって」と言ったがまた
もや私を叩こうとして友人は本を振り上げた。やむなく私は友人の手にする
池田晶子の著書を取り上げ、「これで叩くなら渡さないぞ」と忠告した。「
お前が持ってる池田の本を返せ。俺のだ」と友人が言う。私は言った。「有
るのかないのか、それはわからん」「有るじゃねえか。手に持ってるだろ」
「それはわからん。存在とはそういうものだ」友人は無理やり奪おうとし、
もみ合い。マルクスが巧いことを言ってますね。〈人間的思惟に対象的真理
がとどくかどうかの問題はなんら観想 theory の問題などではなくて、一つ
の実践的な問題である。〉マルクスはまさに真理とは実践的に見出されるもの
である、実践において、有るのか、ないのか、は自明なことである。なぜ私の
「存在問題」の提示によって友人が納得しなかったのか、マルクスは説明して
くれています。友人にとって、「俺の大事な池田の本」を、あいつがそれを
勝手に横取りしたことは自明で、取り返す必要もまた自明だった。マルクス
はさすがに良いこと言うと思います。同じ「フォイエルバッハ・テーゼ」で
〈思惟ー実践から切り離された思惟ーが、現実的か非現実的かの争いは一つの
純スコラ的な問題である〉とあります。これまた至言でしょう。