自己というものを生成としてとらえる、というのが『有と時』を読んだ私の
受け取った命題で。干からびた土壌に育った種は成長しても干からびた姿に
なる。芽が出たころに茎の一部が尖った植物は体のどこかに尖ったものを
持っており、また、同類にたいし、どこかで非常な異和をもち、自と他が
同じ生物であると信じられなくなった生物なら、平気で同種を殺し、食べて
しまうかもしれない。これは生きた個体が自然である、よって種子が芽を出し
成長するように、刷り込まれたものを大きくなるに従い表現するようになる
し、しかしそれがどんな奇想天外であっても生物としては自然のことなのだ。
『有と時』にある自然観はそうだろうし、だから他人から理解不能なことも
起こるが、それは人間が自然である限り、不自然ではない。
 少年Aについての文章を読んで感じたのは自己について解剖するための方法
を持たず、手ぶらである。それは不可知論に落ち込む他ない。何らかの方法
がなければ特にああいう特異な精神は分からないというしかないだろう。それ
を池田さんから借用して魂の生成過程といってもよいわけです。それが辿る
ことができれば、「やっぱり分からない」と言わずにすむ。
 もうひとつ、ソクラテスに心酔していた池田さんにとって、「分からない
」こと、「本当は分からない」ことの指摘は現代のソクラテス的で誠実さの
現れを意味していた。少年Aを書いた文章を読んでそう感じました。しかし、
自己を知る方法というのは、色々な文献から読んでいたはずで、あえて手
ぶらになり「分からない」ことにする、魂の問題としてのみ、というのは私
からすると、ソクラテス信徒がそう言ってるのだ、とまとめられる危険もあ
り、危うい話でもあったと思います。