最近じゃニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」という格式ある訳を単に
「ツァラトゥストラはこう言った」と訳したりしたものもありますが、そういう
格式の硬直を和らげるのも一長一短ですね。
 「存在」が非動的な名詞なのに対して「有」が「有る」という動的動詞を思わせ
やすいというのは前進、とは言えますが。

 池田さんの絞り方については、明々白々な区分ができます。

すなわち、

 存在が、

 何故(Why)在る(be)のか?・・・・を問うのが宗教、であり、

 如何に(How)在る(be)のか?・・・・を問うのが科学、であり、

 何が(What)在る(be)のか?・・・・を問うのが哲学、だからです。


ハイデガーは一見、科学や宗教の問いにも踏み込んでいるように見えますが、
それは、「存在論のための『文法』の足りなさ」という忸怩たる思いから来ている
ことに留意することが必要です。
 当然、この場合の「文法の足りなさ」とは言語自体の構造的限界を意味しており、
それで、ニーチェなどはプラトン等古代の哲学者の簡潔にして重厚なる表現に憧憬
をもってシフトしていくことになるわけですね。

 池田さんの哲学エッセイも当然、その延長上にあります。