>>274
>>269であえて、いつ(When)を省いてあることと、>>270の、論理の必然、と、ユニティ、をよくよく
吟味あれ。
 それで時間、というものに対する感覚がほどよく退いてきたなら、同じものにぶつかり、異なる道に進んだニーチェと
ハイデガーの「後ろ姿」が見えるはずですが、はたして、その分かれ道をどちらが先に通ったか、にいったいどれほど
の意味があるのでしょうかね?
 ニーチェとハイデガーの前後関係をいい加減にしてた非は認めますが、
 これはニーチェのギリシャ回帰にも関わってきますし、
 小林秀雄という人が「影響」という言葉が「便利すぎる」と疑義を呈していたことに繋がったりもします。
 今の場合、気を付けないといけないのは「影響」という言葉の「不自由さ」ですが。

>>275
 おお。

 それこそは埴谷雄高さんがその大著「死霊」で提示したかった「虚在(虚体)」への
入り口を端的に示すものではないですか。

 いかにも、あのレオナルド・ディカプリオ紛する恋人、ジャックという男はもはや、
「実在」はしないが、しかし、「虚在」はしている。
 実在、という存在形式に対立する、虚在、という存在形式で、たしかに、『有る』。
 恋人の「実体」そのものが、その夢も含めた「虚体」の存在を証している。


 「池田さんの提示していた存在問題とのもっとも明白な差異」をもう少し詳述してもらえませんか?
 埴谷さんとの親睦の深かった池田さんが虚在、を無視してたとも思えないのですが。