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私もそう思います。エッセイストになっていたらさほど問題はなかったろう
。「私」とはどこにあるのか。あなたの毎夜呑む酒を求める欲求ですよ。酒
に酔って良い気分になる感覚ですよ。哲学に何故か惹かれる牽引力ですよ。
彼女の頻発する「私」不可知論も彼女が勉強したという現象学的還元を使えば
何てことなく説明できる。そんな応用もないとは本当に勉強したのか疑問です
ね。
 埴谷雄高論は核であり出発点である自同律の不快に納得できない。あれが
掴めないなら何のための埴谷論なのかよく分からない。ただの知的な意匠に
なるしかない。自同律の不快っていうのは埴谷の存在論の始まりであり、
あと、自己や世界も宇宙も含めて有るものの全否定、今有ることに対する
怒りや悔しさや悲しみも含まれている。埴谷の優しさと諦念はそこから来て
いたし、有ることの不快がないから池田女史は自分好きでいられた。全然違
います。